秘密に愛と傷を重ねて。
留三郎が目を覚まして瞼を開くと、見覚えのある天井がぼやけて映る。瞬きを繰り返していると不意に顔を覗きこまれ、見知った顔が視界に入った。
「留三郎、気付いたの?」
不安そうな表情で顔を覗きこみ、そう声を掛けた人影が伊作だと気付くのにしばらく時間がかかり、瞬きを繰り返す。
「…あ、伊作?」
「そうだよ」
伊作は穏やかな笑みを浮かべて留三郎の髪を前髪を掻きあげた。
「自分の名前は言えるかい?」
「…食満、留三郎」
「此処がどこだか分かる?」
留三郎は自分が寝かされている部屋を見渡して小さく頷いた。
「医務室だろ?」
「うん。そうだよ。じゃあどうして此処で寝かされているのかはわかるかい?」
どうしてここにいるのか、それを思いだすために留三郎は瞼を閉じる。しかし先ほどから響くように痛む頭に集中力が続かない。
「…頭、痛ぇ」
「どんなふうに痛む?」
「呼吸するたびに、気ぃ失いそうになるくらい痛ぇ」
留三郎が意識を取り戻したのも、その頭痛の所為であった。そして頭痛に気を取られていてまだ留三郎自身気付いていないが、体が鉛のように重く、体のあちこちが悲鳴を上げていた。
「そう、神経かな…安静にしていたらすぐに良くなるよ」
「…伊作、俺、ヘマしたのか?」
留三郎は痛みに耐えるように目を細めながら伊作へと視線をやった。その問に伊作は目を細めるだけで答えない。
「今は何も考えないでゆっくり休んで」
伊作の声はとても穏やかで、留三郎は言われた通り何も考えないでおこうと瞼を閉じた。何かを考えようとしてもキリキリと痛む頭では何も思い出せないだろうと分かっているのだ。髪を撫でた伊作の手付きがとても優しくて痛みは静かに遠ざかり、留三郎はすぐに眠りへと落ちる。
留三郎が眠ったことを確認して、伊作は留三郎の名前を呼んだ。表情は苦しげで、その手は痛いくらいに強くに握りしめられていた。
今回の任務を学園長へと依頼してきた男が学園へ駈けこんで来たのは二日前の夕方であった。学園長の命で使いに出ていた文次郎と留三郎の二人が与えられた任務に失敗し、留三郎が一時捕らえられたことを学園に着くなり報告した。
それからは早かった。状況を把握する為に教師達がすぐさま現場に向かい、そして文次郎と留三郎を連れて帰ってきたのだ。留三郎は既に半日も目を覚まさない状態であり、すぐに医務室へと運ばれた。そして怪我のない文次郎は学園長室に呼ばれていた。
保健委員長である伊作は留三郎が運び込まれる前から医務室で待機をしていた。二人が任務を失敗するなんてとても珍しいことであり未だ信じられない心持ちでいたのだが、運ばれて来た留三郎の様子に言葉を失った。
未だ目を覚まさない留三郎の状態から何があったのかをある程度なら察することは出来る。そして文次郎が持ち帰った粉を調べることで、彼を助けることが可能であろう。しかしやはり詳しい状況を知りたかった。
それは保健委員という役柄というより、留三郎と同室で長い時間を共に過ごして来た人間としてであった。
「何があったんだ?」
責め立てるような口調になってしまったことに伊作は気付いていたが、それでも訂正する余裕はなかった。そして文次郎はそんな伊作の質問に何も答えない。その表情は暗く、生気が失われているかのようにも見えた。何も答えない文次郎にさすがの伊作も苛立ちを隠せなかった。しかし、次の瞬間、伊作のその苛立ちは消えてしまった。
文次郎が伊作の眼の前で土下座をしたのである。
「…本当にすまない。全て俺の責任だ」
その声はあまりにも悲痛なものとして伊作の耳に届く。今目の前で怒りを露わにした伊作よりも、文次郎の方がはるかに自分自身に対して怒っているのである。それに気付いた伊作は文次郎に対してもう何も言えなかった。
廊下に人の気配を感じて伊作は襖を開ける。そこには文次郎が暗い表情のまま正座していた。
男からの報告を受けて学園の教師達がすぐさまに廃寺へと向かったが、その時にはもう忍者や山賊などの姿はなかったらしい。留三郎の姿が消えたことで仲間がいたことを悟られ、逃げられてしまったのだ。
そのことで文次郎は二日ほど謹慎処分を受けていた。そして謹慎が解けてからというもの、時間があれば医務室の前で座り続けている。
「さっき留三郎が一度目を覚ましたよ」
「…そうか」
「うん、最悪なケースは免れた。でも、ショックで任務前後の記憶が混線している可能性がある」
「…」
「僕はそれを悲しむべきなのか喜ぶべきなのか、判断に困っているよ」
伊作の言葉に文次郎は何も答えない。ただ視線を前にやり、何かに耐えるかのように歯を食いしばっていた。
「新野先生を呼びに行ってくるから、少しだけ中に入って留三郎の様子を見ていてくれないか?」
「…分かった」
文次郎は腰を上げて医務室の中へと足を踏み入れる。そして医務室で体を横たえている留三郎の前で足を止めた。
「しばらく頼むよ」
伊作は文次郎にそう声を掛けてから襖を閉める。
捕らえられた留三郎がどういう目に合ったか。それは話を聞くまでもなく伊作には大体の予想がついていた。しかしそれはあくまで予想であり、それを確かめる術はその場にいた文次郎を問い詰めるしかない。そしてそれを確かめることが伊作には出来なかった。誰よりも自分を責めて追い詰めている今の文次郎に、その現場を語らせることはあまりにも心ないことである。
「…雪はもう降らないか」
外は小春日和で暖かい日差しが差し込んでいる。冬はもう終わる。そして春が来るのだ。
あまりに残酷な時間の流れに伊作は悲しみの視線を投げながら新野先生の部屋へと急いだ。
留三郎の傍らで立っていた文次郎はようやく腰を下ろし、眠っている留三郎の顔へと暗い視線を向けていた。
「…留三郎」
その名を呼ぶその声は微かなものであり、眠っている留三郎を起こすようなものではない。
じっとその寝顔を見つめているだけだった文次郎は、不意に留三郎へと手を伸ばした。しかし、触れるのを躊躇うかのようにその手はすんでのところで止まる。
文次郎は留三郎へと触れるのが怖いのである。
今までの自分達を、そして想い人である留三郎を、文次郎は裏切ってしまったと思っていた。そしてそんな自分がもう留三郎へと触れていい訳がないと思い至ったのである。
それでも想い人への未練は断ち切れず、躊躇ったように空中で止められた手は長いこと下ろされずそのまま固まっていた。意を決したように手の平が頬へ近づくが、結局のところ留三郎に触れることなくその手は下ろされ、文次郎は黙り込んだままその寝顔へ視線を落としている。
乾燥している薄い唇が開かれ、文次郎は呪詛のようにいつもと同じ言葉を口にした。
「許してくれ」
掠れた声は砂のように留まることなく零れて消えて行く。
深い眠りに囚われている留三郎は、文次郎が思い詰めたような表情で自分を見ていることなど知り得なかった。
*:*:*
「…任務を与えられたことは覚えている?」
「…覚えている。文次郎と二人で学園を出たのも覚えている」
「そう」
「宿に着いて、一人で寺に向かって…だめだ、そこから途切れる」
留三郎は思い出せないというように額を手で押さえた。どうしてもそこからの記憶が思い出せないのである。頭痛はかなり良くはなっていたが、今でも気を抜くと痛みだす。それを伊作は懸念していた。
「無理して思いだそうとしなくていいよ」
伊作が留三郎の背中を擦り、顔を覗きこんだ。
「…でも、せめて奴らの顔くらい思い出さねぇと」
「大丈夫だよ。続きは先生達がやってくれてる」
「そうだろうけど…」
留三郎は苦笑して伊作を見た。伊作が留三郎を気遣っていることくらい留三郎にも分かっていた。それでも任務を失敗してしまった自分に出来ることはこれしかないのだ。
「…さぁ、もう考えるのは止して頭を休ませて」
伊作が留三郎を無理やり横にさせ、留三郎は素直にそれに従う。いくら保健委員長とはいえ、伊作は留三郎の看病にかなりの時間を費やしていた。それに感謝しているからこそ留三郎は伊作の言葉には素直に従うのである。
「じゃあ僕は午後の授業に出てくるけど、安静にしててね」
「分かったよ」
「じゃあ、行ってきます」
伊作は毎日、自室で安静にしている留三郎へと昼食を運び、そして一緒に食べてくれるのである。
昼食の時間や昼の休み時間を留三郎と過ごし、空になった盆や食器を重ねて、午後の授業に出るために伊作は部屋を出て行った。
一人きりになった部屋の中で、留三郎は布団の中へと潜り込む。頭まで被らないと何故か分からないが不安になるのである。
(…思い出すのが怖いだなんて、情けないこと言えないよな)
今の自分に出来ることはなるべく正しい情報を思い出すことだけである。それなのにその行為を怖いと思ってしまう。思い出さなければいけないと思っているにも関わらず、留三郎の意識は思い出すという行為を無意識に拒む。
(…そういや、文次郎はどうしてるんだろう)
意識を取り戻してもう五日も経つというのに文次郎は留三郎の前へと一度も現れなかった。部屋から出ることを禁じられているため、留三郎から文次郎を訪ねに行くことは出来ない。
(あいつなら何か知っているはずなのにな)
知っているはずなのに何も告げに来ない文次郎を訝しく思う。そしてそれと同時に、自分の身に起きただろう出来事が事実なのだと確信する。
一番はじめに意識を取り戻した時、頭痛や体の重さの他に体に違和感があった。それは普通なら痛むべきはずない箇所であり、留三郎は自分が何者かに犯されたことに気付いたのである。
(だっせー…)
思わず自分を嘲笑し、そして唇を噛む。忍者を目指している留三郎は貞操などにはあまり拘らない人間である。それでも顔も知らない男に体を好きにされたという事実にその心を痛めた。
しかも、もしかしたらそれを文次郎に目撃されたかもしれないのだ。だからこそ文次郎は留三郎の前に姿を現さないのではないか。その疑問は留三郎を苛ました。思い出すことを拒んでしまうのは、その事実を知ることが怖いからなのかもしれない。
(文次郎、俺を気持ち悪いって思ったのかもな)
五日経ち、一度も見舞いにも来ない文次郎の心を留三郎はそう決めつけてしまっていた。
(…文次郎に見られていたとしたら、もう合わす顔はねぇ)
布団から顔を出し、留三郎は襖を見つめた。その襖が開いて誰かが訪れるのを待っているのである。しかしその襖は、夕方になって伊作が戻ってくるまで一度も開かれなかった。
*:*:*
「時間が経てば、嫌でも何か思い出すだろうから今は無理をしなくていい」
無理に記憶を呼び起こそうとしている留三郎に掛けた伊作のその言葉は正しかった。一週間が経過し、授業に戻れるようになった頃からおかしな現象が留三郎を襲い始めたのだ。
今までは悪夢を見てうなされて起きるくらいで、その夢を留三郎は何ひとつ覚えていなかった。しかし最近はその夢の内容が少しずつ残るようになってきたのである。
その夢の内容はまさに悪夢であった。夢の中で全裸で横たわった自分が男達に体を好きに弄られ、しかも夢の中の留三郎は素直に反応を示すのである。咥えろと言われれば、素直に大人の男のものを咥えこみ、また体を揺らされれば素直に喘ぐ。自分が身も知らぬ男と交わるのを、意識のある留三郎は遠くから見ているしか出来ない。
「やめろ、やめてくれ」と叫んでも、もう一人の自分には届かない。見たくなくて、思わず目を塞ぎしゃがみ込んでどうにかやり過ごそうとしても不意に腕を掴まれてしまう。顔をあげると目の前には男達が立ち並び、しかも奇妙なことに男達の顔は見えない。靄がかかったように顔だけがぼんやりしているのである。誰か分からない男らに力づくで床に縫いとめられ、圧し掛かられるところでいつも目が覚めるのである。
「…はぁ…夢か」
冷や汗なのか、こういう夢を見る時はいつも寝汗がすごかった。そして、留三郎を絶望の淵へと追いやるのは目が覚めるといつも性器が反応示していることであった。
夢の中で「やめてくれ」と叫んでいたのも自分なのだが、知らない男に触れられてよがっているのまた自分なのである。
(気持ち悪い)
夢の中で触れてきた男たちではなく、留三郎は自分のことを何よりも気持ち悪いと思ってしまう。吐きたくても吐けず、何よりここで吐いてしまえばまた伊作の手を煩わせてしまう。留三郎は恐怖からか震えている体に力を入れて立ち上った。
向かった先は厠であった。吐くにしても、自慰をするにしても都合がいい場所である。真夜中の厠には人の気配はなく、留三郎は厠へと入った。
気持ち悪いと思ったところで、どうにかしなければならない。留三郎はそっと自分の性器へと触れると何も見えないように目を瞑って扱きだす。
これは生理的なものだから、この行為に意味などないから、そうやって言い訳をしながら留三郎は手を動かしていた。
「っ…あぁっ」
仕方がないと思っていたはずなのに、達する時に留三郎は声をあげてしまった。そして信じられないというように目を見開いて手の平に吐き出した自分の白濁を見つめた。
達する瞬間、文次郎の声が聞えたのだ。それが幻聴だというのは分かっていた。それでも聞えた言葉の内容に自分が隠そうとしていた浅ましい心が垣間見えてしまう。
『留三郎、好きだ』
耳元で囁くような文次郎の声で留三郎は達してしまったのだ。自分が文次郎まで汚してしまった気がして、留三郎の瞳に涙が浮かぶ。
「嫌だ…嫌だ」
溢れた涙を汚れていない手で拭い、留三郎は涙が止まるまでその場に座り込んでいた。
どろりとした感触が気持ち悪くてすぐに紙で手の平を拭く。
けれど今度はその青臭い臭いが気になって仕方がない。
留三郎はその手を水で洗い流そうと厠を出た。
視線は自然に足元へと落ちていた。そしてその視界に誰かの足が入ったのだ。
今は誰にも会いたくなかった。
けれど無言で立ち去るわけにもいかない。適当に挨拶してさっさと立ち去ろう。
そう覚悟を決めた留三郎は顔を上げたけれど、その瞳は驚きで見開かれるばかりで中々言葉が紡げなかった。
「…もんじ、ろ」
厠の外には文次郎が立っていた。月の光が文次郎を照らして、影はまるで闇のように黒く地面へと落ちている。思いもしない人物との遭遇に留三郎は固まってしまった。
文次郎は何も言わなかった。何も言わないまま、留三郎を見つめる。自分の汚い感情まで見透かされてしまいそうで留三郎は文次郎から視線を逸らした。そしてその場から逃げようと一歩後ずさる。しかし足は厠の戸へとぶつかり、背後にこれ以上の逃げ場はない。
「来るな…」
近付いてきた文次郎へと留三郎は静止の言葉を掛けるしか出来ない。しかし文次郎は言葉に従わない。静かに近付き、そして留三郎の肩を掴んだ。
「…大丈夫か?」
聞いたこともないような優しい声に、涙が零れ落ちた。頬を流れた涙が顎を伝って首筋に落ちる。文次郎の視線はその涙を追うように首筋へと落ちた。
「…触ってくれるな、後生だから」
自分自身のことを何よりも気持ち悪いと思っている留三郎にとって、文次郎が自分へ触れることは特別な感情を抱いている相手である文次郎をも自分が汚してしまうことでしかなかった。しかしそれでも文次郎は立ち去るどころか、肩に置いていた手を留三郎の頬へと移動させる。
文次郎の手が壊れ物に触れるかのように慎重に留三郎へと触れ、その指先に留三郎が狼狽していると文次郎が留三郎の首筋に顔を寄せた。そして鎖骨の上辺りに唇を落としたのだ。
想定出来ずにいた文次郎の行動に、留三郎は驚き過ぎて声が出なかった。文次郎は留三郎の首筋へ一度舌を這わせた後に強く吸いついてから顔を上げた。その瞳には留三郎と同じように愁いと悲しみと絶望と、そして欲情の色が宿っていた。
「…許してくれ」
文次郎はその言葉だけ残して留三郎へと背を向けて立ち去る。
満月にほど近い月明りは眩しいほどで、涙でぼやけた視界の向こうに消えて行く文次郎に留三郎は声を掛けることが出来なかった。
そして文次郎の取った行動と、その言葉の意味も理解出来ない。
留三郎がようやく文次郎の名前を呼んだとき、そこには既に誰の姿もなかった。
(2010/03/11)