秘密に愛と傷を重ねて。
廃寺がある山中腹に留三郎が辿りついた頃には辺りは完全な闇に包まれていた。風が吹く度に木々の枝が揺れて周囲がざわつき、蝙蝠などの夜行性の生物の声が遠くから聞こえてくる。
「此処か」
留三郎が足を止めて見上げた石段は途中から闇に同化しており、廃寺を視界に捉えることは出来ない。
この石段を上った先が目的地の廃寺で、これからが与えられた任務の本番である。
木々の間へと身を潜めて、留三郎は深呼吸をした。その時、何処から甘い香りが漂ってくることに気付く。しかしその匂いは風に吹かれる木々の匂いに混じってすぐに分からなくなってしまった。
(…花の匂いか?)
不審に思ったが、甘い匂いは廃寺の方から漂ってくることに気付いて吸い込まないようにと布で口を覆う。そして辺りに人の気配がないことを確認して留三郎は石段を踏みしめた。
石段を上って廃寺へと近付くにつれて、先ほど一瞬だけ感じた匂いが濃くなっていく。これは花の匂いか、それとも香なのだろうか。どちらとも取れない初めての匂いに留三郎は警戒を緩めない。
境内に辿りつくと目の前に大きな本堂が現われた。廃寺と聞いていたが、思っていたよりも建物はしっかりしている。そして本堂の入口の戸は固く閉じられていた。それはこの廃寺に誰かが潜んでいるということを留三郎へと知らせる。本来なら破壊することで戸をこじ開けることが出来るが、今回の任務は偵察であり、見つかるわけにはいかないのである。この扉以外の出入り口を探すために留三郎は本堂の外壁に沿って進んだ。
留三郎がいる場所以外にもどうやら建物があるらしい。遠くに松明の灯りが見え、その後には蔵らしきものが見えた。灯りがあるということはやはり人がいるということである。息を潜めてその蔵の方を窺うと刀を差している男たちが蔵の前に座って談笑している。会話の内容は聞くことが出来ないが、そこにいる男たちの服装は武士というよりは山賊に近いことが分かる。潜んでいるのは山賊だろうという留三郎と文次郎の仮説は当たっていたのだ。
蔵の中も後で確認しなければならないが人の気配がない本堂の方を優先させようと、留三郎は先ほどとは反対方向へと回り込んだ。本堂の裏へと回ると小さな扉がひとつあり、先ほどの扉とは違って簡単に開くことが出来る。人の気配が辺りにないことを確かめてから留三郎はその扉を開けた。
「…何だ、これは」
思わず留三郎は口を覆っている布をずらして呟く。
それも仕方がないことであった。留三郎が目にしたのは、暗い本堂の中でほぼ何も身に付けない状態で座り込んでいたり、寝転がっている女たちだったのだ。
本堂に灯りはなく、明かり取りから差し込む月の光だけが本堂の中を照らしている。
咽返るほどの匂いに、留三郎は慌てて布で口と鼻を覆った。この匂いの正体はまだ分からないが、体にいいものではないだろうということは分かる。嗅いだこともないような匂いと、赤い靄が漂う様な本堂の雰囲気はどう見ても異様であった。女たちは拘束されているわけでもない。それなのに戸が開いても逃げ出そうともしないのだ。
すぐ傍にいた女へと視線を向けたが、その女は留三郎を見ていなかった。壁に凭れて座り込み、ぼんやりと月の光を見つめながら小さく唄を口ずさんでいる。着物は乱れており、胸は月明かりに晒されている。
ここで何が行われているかは留三郎にもすぐに分かった。しかし、攫われてきたはずの女たちが誰も逃げ出さない理由までは分からない。
「君、大丈夫か?」
本人へ確認して真相を探ろうと、留三郎は女の隣りに屈んだ。
「君、」
留三郎が声を掛けてもその女はまるで聞えていないかのように返事をしない。それどころか留三郎へと視線をやることもせず、ただ唄を口ずさむばかりである。
「…狂人か?」
まだ若いというのにこのように髪も梳かず、胸を曝け出したままでいる女は気が狂ったとしか留三郎には思えなかった。
唐突に本堂内に甲高い笑い声が響き、思わずその方向へと顔を向けるとひとりの女が笑いながら手を叩いている。その笑い声に留三郎の背筋は凍りついた。
「…何なんだ?」
目の前に広がる異様な光景に、留三郎は絶句するしかなかった。手を打ち叩き笑っている女だけでなく、その隣で転がっている女も同じように笑っている。留三郎の一番近くで座っている女はまるでその笑い声さえも聞こえないというように反応を示さず、先ほど同じように唄を口ずさむだけだ。
「…これは何かがおかしい」
このまま此処にいても情報を得ることは出来ない。
そう悟った留三郎がこの場を離れようと立ち上った時、首筋に衝撃が走った。
倒れる前に振りかえるとそこには留三郎と同く、闇に同化する服を着た男が立っていた。
「…ち、くしょ」
床へと倒れ込み、意識が薄れゆく中で目の前の男がにやりと薄気味悪く笑うのを留三郎は見た。
先ほど留三郎が声を掛けた女は、目の前で留三郎が倒れても悲鳴すら上げず、唄の同じ個所ばかりを繰り返し歌っていた。
*:*:*
意識が浮上して目を開く。
ぼんやりとした視界が段々と鮮明になり、留三郎は自分が見知らぬ場所で寝転がされていることに気付いた。身を捩らせたが、腕も足も縄で縛られていて自由に動かすことが出来ない。今の留三郎が自分の意思で動かせられるのは首から上だけであった。自分自身が置かれた状況を把握すると、恐怖が湧きあがってくる。
覚えていることは何者かに背後を取られていたことであり、その人物が山賊なんかではなく、忍者だったことであった。闇に身を同化させたその人物が、薄く笑う。
それが意識を失う直前に留三郎が見たものであった。
「目が覚めたか?」
留三郎が意識を取り戻したことに気付いたらしい人物が近づいて来る。しかし、視界に入ったのは忍足袋ではなく黒足袋だった。顔を見ようと留三郎が首を上げるよりも早く、男は留三郎の前髪を掴んで顔を上げさせた。
「忍が嗅ぎ回っていると聞いたが、何だ、まだ子供でないか」
男は留三郎へと蔑んだような笑みを落とす。
「どこの者だ?言えばむごい目には合わずに済むぞ」
留三郎は唇を固く横に結び、目の前の男を睨みつけた。その男は忍者ではなく、どちらかというと貴族に近い出で立ちをしていた。留三郎が男を睨みつけるその視線は殺気すら含んでいるものであるが、男はその視線に怯むことすらなく留三郎の頬を持っていた扇で軽く打つ。
「自分が置かれている状況、分からんのか?」
小馬鹿にしたような口調に、留三郎は怒りを覚える。
「失礼ですが、子供だとしても忍は忍です。そう脅しには乗らないし、口を割る確率は低いと思いますが」
男に対してそう告げたのは、留三郎を手刀で昏倒させた忍び装束を着た人物であった。目の前で綺麗な着物を見に付け、狡猾そうな細い目をした男は「それくらい分かっておるわ」と苛立ったように返す。
「しかし、忍を差し向けられたとはいえ、こんな子供。まだ計画が完全に漏れたというわけではなかろう」
男は留三郎の髪を掴んでいた手を離して扇を開いた。急に手を離され、留三郎の頬は冷たい床へと触れる。男は忍び装束の男と会話をはじめ、その会話を聞きながら留三郎は隠し持っていた小刀ややすりを探そうと身を捩らせた。しかしすぐにその動きを制されてしまう。
「隠し持っていた物は全てここだ」
忍び装束の男が薄く笑みを浮かべながら身を捩らせた留三郎を足で押さえる。
「無駄に足掻くな、お前の腕では逃げられはせん」
留三郎はただ睨みつけるだけで言葉は口にしなかった。何かを言ったところで今の状況を打破することは不可能なのだ。それくらい留三郎にだって分かっていた。
これから自分の身に何が起こるのだろうか、不安が浮かんでは留三郎の精神力を少しずつ削って行く。気丈に構えているつもりが、震えが止まらない。
「こいつ程度の者が持っている情報などたかが知れています。口を割らせるまでもないと思いますが」
留三郎を踏みつけている忍び装束の男は留三郎を見つめたままそう告げた。それは暗に今すぐにでも殺すという様なもので、留三郎の首筋に冷や汗が流れる。
「子供といえどこのまま逃すわけにもいくまいしな」
「私が片付けましょうか?」
「いや、良いことを思いついた。殺す必要はない」
男はまた留三郎の前へとやってきて、もう一度髪を掴んで引っ張り上げる。そしてぐいっと骨ばったその顔を近づけ、舌なめずりをした。
その動作に反射で鳥肌が立つ。忍び装束の男は留三郎から足をどかせて男の脇へと移動し、冷たい視線で留三郎のことを見下ろしているだけだ。
「確か女が足りないと言っていたな?」
「はっ」
「こやつを加えればいい」
くっくと喉で笑うようにしながら男は忍び装束の男を振りかえる。
今の言葉の意味を理解したくなくて留三郎は目を瞑った。結っていた髪を解かれ、髪がぱらりと頬に掛かる。目を開くと、目の前で男が目を細めて笑い、その瞳には欲が滲んでいた。欲情したような瞳で見つめられ、嫌悪感で鳥肌が立つ。そしてそれは中々治まりそうにもなかった。
その手から逃れようと身を捩ってみるがそれらは全て無駄な抵抗であり、さらに強い力で捕まえられるだけである。
「きれいな顔をしているし、まだ子供だ。男でも構わないだろう」
「はっ。それではアレを焚きますか?」
「そうだな。仮にも忍者だ。普段より強めに焚いてやれ」
男がそう指示すると、忍び装束の男は留三郎が見ることが出来ない後方へと回り、何やら準備を始める。今から何をされるのかが分からない。その恐怖に顔色を変えて歯をカチカチと鳴らす留三郎に気付いた男はまた笑みを浮かべた。唇は綺麗に弧を描いていたが、瞳は笑ってなどいない。その男の闇のように黒い瞳に自分の顔が映るのを留三郎は見つめていた。
「何も殴ったりする訳ではないのだ。そんなに怯えるな。殺しはしないし、痛いことなど何ひとつない。恐怖もすぐに消えるだろうし、忍びであったことすら忘れる」
男はそれだけ告げると留三郎の顎を捉えていた手を離した。そのまま床に転がされた留三郎の周りに白い器が三つほど置かれる。中に何が入っているかまでは見えなかったが、そこから先ほど本堂の中で嗅いだ、脳みそが痺れるような甘い匂いと共に煙がのぼっていた。
これを吸いこませることが狙いだとすぐ分かった。しかし自由を奪われている留三郎にその煙から逃れる術は何ひとつ残っていない。
「では、また後で会おう」
男はまるで面白いものを見るように留三郎へと視線を落としてその場を離れた。そして男の次に忍び装束の男も建物から出て、そして留三郎の前で静かに戸が閉められた。
助けを求めようにも、室内には留三郎以外に人影はない。それどころかこの境内にいる人物たちは皆が留三郎の敵なのだ。
なるべく怪しい煙を吸いこまないように、呼吸を落ち着かせる。体の自由を封じられている留三郎に出来ることはそれくらいしかなかった。しかしその小さな抵抗も空しく、吸い込んでしまった甘い匂いが体の自由を少しずつ奪いはじめ、体が重くなり始める。そして意識すら朦朧としていく。痺れたように思考が麻痺しはじめ、何も考えられずにやがて思考が停止した。
意識を手放す前に、留三郎は自分の帰りを待っているであろう文次郎の名前を小さく呼んでいた。
*:*:*
次に留三郎が目を覚ました時、足の縄は解かれていた。そして縄だけでなく、来ている服までほとんど脱がされた状態であった。それにも関わらず、留三郎は何も言わないし、逃げようと抵抗することもない。ただぼんやりとした瞳で自分の上に圧し掛かっている男の姿を見つめているのである。
「目が覚めたか?」
空気に晒された象牙色の肌を確かめるように触れていた男が、留三郎を見つめがらにやりと笑う。しかしその声は留三郎へと届かない。留三郎は自分に触れている男の手の動きを見つめているだけだ。
「服で隠れている部分の色は随分と白いな。女よりも白いのではないか?」
含み笑うようなその言葉は留三郎へと向けられたものであったがやはり留三郎は返事をしない。
「この傷だけ、少々目立つか」
男は留三郎の脇腹にある傷を訝しげに見つめながら、指の腹でなぞる。
その傷は文次郎が付けたものであった。留三郎の体の中で一番大きな傷であり、そして一番愛着がある傷でもある。
留三郎が正気であれば、その傷を他人に触らせること等しない。しかし今の留三郎は正気ではなかった。その瞳は開いているが、何も映してはいない。否、映っているのだが留三郎が認識していないのである。そして目と同じように、耳もその機能を果たしていなかった。聞えてはいるが、その言葉が何を言っているのか考えるための思考を奪われてしまっているのである。
だから留三郎は自分が何故このような場所にいるのか、そして何故衣服を剥かれているのか、何故男が自分の身体に触れているのか、それらの理由が分からないにも関わらず考えることもしない。留三郎の思考は、与えられた感覚を追うだけであった。
男の指先がぷくりと膨れ上がった傷跡と皮膚の境目をなぞった時、留三郎は眉を寄せた。先ほどから背筋を電流のようなものが走っているのだ。男が爪で境目を強く押した時、留三郎は思わず目を瞑った。
「んっ…あっ…」
薄く開かれたままの留三郎の唇から洩れた声は痛みを訴えるものではなく、快感を伝えるものである。その声に男は汚らしい笑みを浮かべて留三郎の顎を掴んだ。留三郎はその手から逃れようとはしない。ただ目の前にある人間を見つめるだけで、その瞳には何かを訴えかけるような光も影もない。
「ただの脅しだったんだが、これは本当に使えるかもしれないな」
男はくっくと喉を鳴らして笑い、留三郎の顎から手を離した。そして傍らに立たせていた忍び装束の男を呼ぶ。
「あの薬はまだあったか?」
「はい」
「持って来い。今からこいつに飲ませる」
「はっ」
忍び装束の男は頭を下げてから下がった。その間に男は留三郎の周りで立っている山賊のような出で立ちの輩へと視線を向ける。
「今夜はこいつを仕込め。ただし商品だ。傷も跡もつけるなよ」
男の言葉に男共は「おお!」と歓声のような声を上げる。しかしその声ですら留三郎には届かない。ぼんやり焦点の合わない瞳のまま、傷に触れる男の指を見つめている。
「持って参りました」
忍び装束の男が戻り、男に薬瓶を渡した。
「いつもより多くはないか?」
「仮にも忍者であれば大体の薬には多少耐性がついているかと」
「ほう、ならこれくらいで丁度いいのか」
男は笑みを浮かべたままその瓶に口を付けて中の透明な液体を口に含んだ。そして留三郎の顎をもう一度捕える。その男が口に含んでいる物が何なのか、いつもの状態であれば察することが出来た。しかし今の留三郎はそこまで思考が及ばない。唇を開かされるままに開き、男の舌と共に流れ込んでくるその液体を留三郎は躊躇うことなく飲み下した。
飲み込み切れなかった液体が唇から溢れ顎を伝い落ちる。男はとろみのあるその液体を指で拭い、指を留三郎の口の前まで持っていき、そして口の中へと突っ込んだ。
「舐めろ」
男は留三郎の耳元へ口を寄せてそう命令した。しばらく固まっていた留三郎はその言葉を理解したのか、男の指へ舌を絡める。捕まった時に殺気を出しながら睨みつけた面影はもはやどこにも見つけることは出来ない。
留三郎が素直に従ったことに満足したのか男は獲物を見つけた猛禽類のように細い目をさらに細めて笑う。そして留三郎の上から退くと、部屋にいる輩へ「可愛がってやれ」と一言残して部屋を去っていった。
男が去ったことを確かめると、部屋にいる輩は一斉に留三郎へと視線を落とす。彼等の眼には明らからな色欲が浮かんでいる。
しかし欲情の眼差しを向けられている留三郎自身は、その視線に気付かないのかぼんやりと宙を見つめていた。
(2010/03/05)