秘密に愛と傷を重ねて。





中間地点に着いた時には既に日が昇っていた。学園長が用意してくれた宿屋はもう四分の一ほど行った先にある。そこで夕刻まで休み、目的地である廃寺へは日が沈んで辺りが暗くなってから向かう予定であった。
いくら日頃から鍛えているといえども、こんなに歩けばさすがに疲れて来る。体力的な面でいえば、学園一忍者をしていると日頃から豪語している文次郎の方が留三郎より優れていた。しかしだからこそ留三郎は疲れていてもその事を口にはしない。留三郎にとって文次郎は好敵手であり、気を使われるべき相手ではないのだ。
太陽が真上を少し過ぎた頃、ようやく学園長が手配してくれた宿に辿りついた。学園長の知り合いが経営しているらしく情報は既に回っていたようであった。

「学園の生徒だね?話は聞いているよ」

気の弱そうな中年の男性が辿りついた二人を出迎え、部屋へと案内する。

「厄介になります」

ぺこりと頭を下げた文次郎の隣りで同じように留三郎も頭を下げる。ひょろりとした男性は二人に笑い掛け、「十分に体を休めて下さい。夕飯の用意があるので失礼します」と出て行った。
冬とはいえど歩き続けていれば汗もかく。汗が冷えぬうちに体を拭こうと二人は服を脱ぎ出した。部屋には替えの服や手拭などがあらかじめ用意されている。

「ほら」

留三郎はひとつの手拭を首にかけながら、もうひとつを背後にいる文次郎へと手渡すために振り向いた。風呂で一緒になることもあるから文次郎の体など珍しいものではない。それにも関わらず、文次郎の背中にあるひとつの傷跡を視界に捉えた時、留三郎の瞳は予期しないものを見たかのように見開いた。

文次郎の背中に走る一筋の傷は留三郎がつけたものではない。その他の細かい傷はほとんど留三郎によるものだったが、一番大きなその傷だけは違うのである。
無意識に視線はその傷ばかりを見つめ、ごくりと喉が鳴る。そっと手を伸ばして触れようとした時、文次郎が振り返って手を差し出した。

「…なんだよ」
「何だよって手拭」

文次郎は呆れたようにそう言い、留三郎は我に返って文次郎へと手拭を渡したのである。
少々ぎこちなく映ったその仕草に文次郎は疑問すら抱かないのか、そのまま先程と同じように背を向けた。
もう一度その傷が留三郎の視界に入る。その傷跡を見つめる留三郎の眉はまるで辛いものを見るかのように哀しげに寄せられていた。

*:*:*

文次郎があの傷を負ったのは半年も前に遡る。
学園の倉庫のひとつが半壊し、その倉庫を教師陣や生徒の手で直していた時のことであった。柱は無事であったため、壁と屋根の修理だけで済むことから壁班と屋根班にそれぞれ分かれて作業をしていた。用具委員は屋根班で、留三郎は修復作業というより下級生が危険なことをしないように見張る役であった。文次郎率いる会計委員は壁班で、留三郎の遥か下で作業を行っていた。
そしてその出来事は、倉庫の修理が終盤に差し掛かり、その日の作業で完成する予定の日に起きた。
放課後も作業に当てなければいけなかった為か、下級生はこの作業から解放されるのを今か今かと待ちわびており、留三郎の目から見ても浮足立っていた。そしてそれは思わぬ事故をもたらした。
同じく屋根班に割り当てられている図書委員のきり丸が、屋根に放された喜三太のなめくじに驚いて持っていた道具を落としてしまったのだ。きり丸の遥か下にはまだ作業に当たっていた会計委員がいた。留三郎が気付いた時には既に切り丸が道具から手を離してしまった後であり、慌てて声を掛けるも、下に居る田村が声に気付いて顔を上げた時にはもう避けれない位置まで迫っていた。
誰もが田村に直撃すると思っていた。しかし、たまたま傍で作業をしていた文次郎がいち早く気付くことにより、田村は無事に難を逃れることが出来たのである。
田村は傷を負う事はなかった。しかしその代わりに文次郎が背中に傷を負った。
幸い、生命の危機に晒されるような大きな怪我ではなかった。しかし、その傷が文次郎の背中から消えることはなかった。半年たった今でも跡は残り、これから先、薄くなることはあっても消えることはないだろう。

留三郎はその傷を眉を寄せたまま黙って見つめていた。なぞろうともう一度伸ばしかけた手は、その傷に触れる前に止められ、元の位置へと戻される。しばらく留三郎は黙ってその傷を見つめていたのだが、文次郎が服を着たことによりその傷は視界から消えた。

「留三郎、」

文次郎が留三郎へ話しかけるように振りかえり、随分と暗い表情をしている留三郎に気付いて言葉を止めた。

「…あ、なんだ?」
「いや、夕食まで横になろうと思っていたんだが…」
「あぁ、いいんじゃないか?俺も少し横になる」

留三郎は取りつくろうように早口でそう告げる。文次郎はそんな留三郎の様子に違和感を感じたが、わざわざ声に出して尋ねることはしなかった。
その代わりにその口から呆れたような溜め息を吐き出す。

「お前いつまでその格好でいるんだよ。寒くねぇの?」
「…うっせぇな。着替えるよ」

文次郎の言葉に留三郎はいつものように眉を顰める。そしてその表情を見た文次郎は少し安堵したように小さく頷いた。

「じゃあ俺も横になる。話し掛けんなよ、文次郎」

文次郎の態度が面白くなくて、留三郎は突っかかるような言い方でそう言い、文次郎へ背を向けた。
布団は隣りに敷かれていた。入口の戸から離れた布団へと身を横たえて、留三郎は瞼を瞑る。
その瞼の裏に思い起こされたのは先ほど見た文次郎の背中の傷だった。留三郎はあの傷が好きではない。傷に好きも嫌いもあるのかと問われれば何も答えることは出来ないが、それでもあの傷跡は気に食わないのである。

初めは「腑に落ちない」というような感覚だった。
文次郎が怪我をして、伊作に手当されているのを傍らで見ながらその傷は腑に落ちないと思ったのだ。文次郎の傷にそのような感情が湧いたことに留三郎は驚きを隠せなかった。気にしないようにしてもやはりその傷が気になって仕方がない。しばらく考えた結果、留三郎は文次郎へ「さっさと治せよ、馬鹿次郎が」と乱暴に告げたのである。
言葉は乱暴ではあったが、それは留三郎の心を痛いほど表していた。何故なら留三郎はその傷が気に食わないからである。
だからさっさと傷跡が残らないように治して欲しかったのだ。しかしその傷は痕跡を残さず消えてくれるような軽いものではなく、塞がったあとも跡は残ってしまった。文次郎と喧嘩をする際、その傷が視界に入ろうものなら留三郎は自分の機嫌が悪くなるのを感じていた。でもその理由がなんなのか、それは分からなかった。留三郎がその原因を探ろうとしなかったこともあるが、何よりその感情は留三郎が予想だにしない場所で起こっていたのである。
文次郎の傷跡が残ってしまうものだと伊作から聞かされた時、留三郎は「治せよ」と理不尽なことを伊作へ言ってしまった。驚いたような顔をした伊作に気付いたが、我儘だといわれようがどうしても治して欲しかったのだ。そのことを素直に伊作へと打ち明けると、伊作は神妙な表情で「うーん」と唸った。そして思いもよらない言葉を留三郎へと告げたのである。

「あの傷が留三郎以外の人が付けた傷だから気に入らないの?」

伊作のその言葉に、留三郎は自分の心を言い当てられたとのだと知った。今まではかりかねていた自分の心を伊作はいとも簡単に言い当ててしまった。
今までなら、文次郎の他の傷はほとんど留三郎がつけたもので、そして自分が付けた傷に対して留三郎はこのような感情を抱いた覚えはなかった。あの傷が他の傷と違うのは、留三郎がつけていないという点だけだったのである。

「留三郎、そうなの?」
「…別にどうでもいいだろう」

自分の心の中を言い当てられたことで少し不機嫌になった留三郎は視線を大袈裟に逸らしてそう呟く。伊作とはもうこの話をしたくない。そういう態度を示すために視線を逸らしたのだが、伊作は気付いているのかいないのかまだ言葉を続けた。

「…留三郎って意外に独占欲強いんだね」

伊作のその言葉に、留三郎は返事をすることが出来なかった。自分の中にある感情が、伊作によって名付けられ整理されていったからである。それらの感情は、今まで文次郎へと抱いていたものとは似ても似つかないものであり、留三郎にとっては受け入れがたいものであった。

それからのことは留三郎はよく覚えていない。自分の中の感情ばかりに気を取られていて伊作の言葉に耳を貸していなかったのだろう。そしてその日に見つけてしまった感情は、未だに留三郎の心の中に居座り続けているのである。

自分以外の人間に傷をつけることを許さないで欲しい。自分だけを特別にして欲しい。

文次郎に対して抱くこのような感情は日増しに増幅していく。それを悟られないようにといつも文次郎を罵倒するのだが、罵倒することすら許して欲しいという浅ましい望みはいつだって心の隅に存在しているのだ。
文次郎と共に与えられたこの任務でさえ、留三郎にとってみたら本当は嬉しいものだった。文次郎が留三郎のの知らない場所で誰かと生死を共にするかもしれないというだけで平常心はすぐに消え失せる。だからこそ文次郎と共に選ばれたのが自分でよかったと心の底から思うのだ。
しかしそれを留三郎は伝えようとするどころか、頑なに隠そうとする。それは今までの関係を壊すことが出来ないことと、こんな感情を持つ自分を文次郎は気持ち悪いと思うだろう推測していたからであった。だからこそひた隠し、そんな素振りも見せずに口を開いては喧嘩を売るのである。
互いに背を向けて横になる二人は会話をすることもない。静まり返った室内には隙間から入り込んでくる風の音と、台所で食事の準備をする音だけが響く。
互いに相手が何を考えているのか気になっている癖に、二人とも名前を呼び掛けることすらしなかった。


*:*:*


太陽は西の山の向こう側へと沈んでいき、辺りは段々と闇の色を濃くしていく。夕飯を済ました文次郎と留三郎の二人は先ほどから静かに喧嘩をしていた。
原因は、二人が手を取り合って任務をこなす気がないことであった。留三郎は文次郎と共に任務につけて嬉しいと思っている癖にその態度を悟られまいとわざとらしく喧嘩を売る。そして留三郎への恋心を自覚している文次郎も普段らしく振るまう為にその喧嘩に乗っかってしまったのである。誰が茶を淹れるかで喧嘩していたはずが、終いには誰が任務をこなすかどうかという話にまで膨れ上がってしまった。

「よし、俺が先行だな!」

じゃんけんに勝った留三郎はにやりと笑って文次郎を見た。負けてしまった文次郎は少し悔しげに留三郎から視線を逸らす。
本来ならば二人で協力しなければならないのだが、今の二人は助け合うつもりはないのである。それは互いに隠したい感情があり、相手に近づき過ぎると感情の揺れを抑えるのは困難であったからだ。だからこそさっさと任務を終えて、いつも通りの会話しながら学園へと帰りたい。二人は互いを睨みつけながらも同じことを思っているのである。

「じゃあ、明日の朝までに俺が戻らなければお前の番だ」

闇夜に溶け込みやすい藍色の服に身を包んだ留三郎は文次郎を見つめながらそう告げる。
「ヘマをしても助けねぇからな」

文次郎は苦い顔をして留三郎へと返す。その言葉に留三郎はうっすらと笑みを浮かべて「うっせーよ」とだけ返して文次郎へと背を向けた。
先行するのは留三郎で、留三郎が明日の朝になっても戻らない場合は文次郎も廃寺へ向かうことになった。留三郎がそれまでに帰ってくることが出来れば、この任務を遂行したのは留三郎だけになる。
留三郎は目的地の方向を見据えて歩きだす。その背中を文次郎は見送ったのだが、その瞳は心配の色が強い。文次郎は口には出さないが、留三郎がきちんと朝までには戻ってくることを祈っているのである。
段々と遠く離れて行く留三郎の背中は、まるで闇に取り込まれたかのようにすぐに見えなくなった。


廃寺の情報を学園長へと流したのは留三郎と文次郎を泊めた宿屋の男であった。
この男が言うには、最近この辺りで若い娘が姿をよく消すのだそうだ。それは山道の途中の場合もあり、また村から攫われてしまう場合もある。そしてその事件と同時期にあの廃寺に幽霊がいるという噂が広まり始めたらしい。
この場所で宿屋を営み始めてから数年になるという男は、そういう噂話は初めて耳にしたのだそうだ。そしてこのまま噂が広まれば廃寺と同じ道上にある宿屋を訪れる人は減ってしまうだろう愁い、噂を確かめるためにひとりでその廃寺まで向かうことにした。その廃寺は噂通り気味の悪い雰囲気を漂わせていたという。
甘い匂いがどこからか微かに漂い、人影が見えないにも関わらず誰かの気配がついてまわる。しかしこの男は偶然にもその寺へと入って行く幾人の男を目撃していた。それは刀を差したごろつきと呼ばれるような輩で、落ち武者か山賊辺りだろうと読んでこのことを学園長へと知らせたのである。
この話を聞いた文次郎と留三郎は、山賊が金目当てや性欲を満たすために若い女を攫っているのだろうと仮説を立てた。これらの情報から導き出すには一番無難な答えである。そしてその仮説が正しいかどうかを確かめるため留三郎はひとり宿を出立したのである。
任務としてそれほど難しいものではなく、ひとりでも大丈夫だろうと留三郎も文次郎も思っていた。それはまだ経験が浅い二人が導き出した安易な予想であり、それらが裏切られることを、未だに二人は気付く様子もない。






(2010/03/03)