秘密に愛と傷に重ねて。





深夜というよりは、早朝の時間帯。月が沈み、陽が昇るまでの僅かな時間が今回の任務に当てられた。暗闇の中移動する黒い影の中、留三郎は一人だけ私服姿であった。囮になる留三郎まで忍び装束を着てしまえば作戦を悟られかねないからである。
山道を暫く走ると、目の前にぼんやりと灯りが見える。それが廃墟から漏れている灯りだと気付いて、皆は足を止めた。
視線を交わし、文次郎は足音もなく廃墟の向こう側へと走り去る。そして利吉や山田先生は入口付近に身を隠した。
全員が配置場所に着いたことを確認して、留三郎は足音をなるべく消さないように歩く。土を踏みしめる音を鳴らし、廃墟に近付くと見張り役に立っていた人物が廃墟から出てきて留三郎の方へと灯りを向けた。

「誰だ!」

大きな声と共に灯りを向けられる。先ほどまで暗闇に慣れていた留三郎の目にはその灯りは眩しすぎて留三郎は眉を顰めた。

「…お前は、」

男は留三郎の顔を見るなり、灯りを下ろす。

「…食満、留三郎です」

男は留三郎をじろりと見まわして、その太い腕で留三郎を掴んだ。

「はは、あの時の小僧か。どうしてここが分かった」
「…俺はこう見えても忍者のたまごです。場所くらい、すぐ分かります」
「ほう、では何しに来たんだ?こんな夜中にひとりで、そんな恰好で」

男は汚らしい笑みを浮かべて尋ねるが、留三郎は俯いたまま返事をしない。上から下まで舐めるような視線で見られて留三郎は鳥肌が立つのを感じた。可能なら、その顔に一発拳を入れたいくらいには不快ではあったが、今それをすることは許されていない。

「まぁ、取りあえず中に入れ。お前なら皆大歓迎だ」

男に腕を引かれて留三郎は廃墟へと足を踏み入れた。
男が言っていた言葉の通り、留三郎が部屋に入るなり男達の視線は全て留三郎へと向けられた。部屋の奥にいる人にも皆が声を掛け、この屋敷にいるとされる全員が今は留三郎の前にいる。部屋の中には酒などが転がっており、アルコールの匂いに混ざって微かにあの甘い匂いがした。

「ほう、自分から来るとはな」
「…頭痛が、治らないんだ」
「ほう?」

頭を抑える留三郎に、リーダーらしき人物が近寄った。むわぁっと酒の臭いがして留三郎は眉間に少し皺を寄せたが男はそんなことは露ほども気にせず留三郎の腕を取る。

「来たらどうなるか位は分かっているよな?」

男の視線は留三郎の胸元へと落ちる。そこから覗くのはもう既に赤い跡が消えた白い肌である。その視線に気付いて留三郎の頬は反射のように朱が混じる。自分を性的対象とする視線に今いち慣れないのである。

「…それでも、来たとしたら?」

留三郎はまるで誘う様に男を見上げた。眉間に寄せられた皺と、薄く朱が帯びた頬、そして何よりその瞳は迷わずに男を見つめる。

「楽しませてやるさ」

男は悦に入ったような声でそう言い、振り返りながら「こいつが遊んでくれるってよ」仲間へと声を掛ける。男達は大きな歓声を上げながら手を叩き、喜びを表現した。

「女共がいなくなってたんで皆溜まってんだ。お前も気持ち良くさせてもらいな」

男が留三郎の耳へと顔を近づけ、その手が留三郎の服の中へと入り込もうとした瞬間、とつぜん爆発音と共に白い煙が室内に立ちこめる。

「何だ?!」

リーダー格の男は慌てて後方の男達へと確認を取る。しかし濃い煙が立ち込めていてでは誰がどこにいるのか確認が出来ない。

「わ、分かりません!」
「うわ、それは俺の足だ!蹴るな!」
「止めろ、俺は味方だろうが!」

室内は混乱した男達の声が行き交い、その混乱に紛れて留三郎は裏口へと走った。
障子が破れている襖を開けて奥へと進み、裏口の戸を開けるとそこには闇に紛れて文次郎が立っている。文次郎の手の中には目的であった桃色の粉薬が入っている大きめな包みがあり、それを確認した留三郎は文次郎と共に闇の中へと走り出した。
背後から更に大きな爆発音が聞こえ、どうやら入口付近で隠れていた山田先生と利吉が戦い始めたようだった。ちらりと一度振り返り、追手がないのを確かめてから文次郎と留三郎は山道へと入っていく。
包みを破かないようと、少し慎重になりながら文次郎は草や枝を掻き分け、留三郎は定期的に後ろから追手が来ないかを確かめた。そうして林を抜けると、目の前の広がった空は白み始めている。

「追っては?」
「ない」
「なら、そのまま行くぞ」

文次郎の言葉に頷いて二人はそのまま丘の方へと駆けだした。丘といっても結構高い場所であり、登るにはかなりの時間がかかった。息を切らしながら二人が丘の頂上へと着いた頃には目の前の東側の地平線から太陽が顔を出しかけて朝を告げている。

「はぁはぁ、着いた」
「丘っつーか、これ、山でいいんじゃねぇ?」

思っていたより険しく高かったその丘の頂上で二人は呼吸を整える。新鮮な空気を肺へと送り込みながら、視線を合わせて二人は微笑んだ。

「もう大丈夫か?」
「おう。つーか、煙幕なんて予定になかっただろ、びっくりしちまったじゃねぇか」

自分以外の男の手が留三郎の肌へと伸びるのが許せなかった。あんな欲情した目で留三郎を見ないでほしかったとはさすがに今は言えず、それらの言葉は全て苦笑へと変わった。
文次郎のその苦笑を見て、留三郎は「まぁ、成功したからいいけど」と返した。
切れた息がすっかり元通りになると、文次郎は包みを開ける。その包みの中には桃色の粉が大量に収められていた。燃やした時の煙ほどではないが、微かに香るその匂いに、留三郎は取りだした頭巾で鼻や口を覆う。文次郎も同じように覆った。
文次郎が両手で広げた風呂敷の端を持ち、その反対側を留三郎が持つ。桃色の粉が乗っているその風呂敷を高く掲げると風がその粉を少しずつ攫って行く。

これで、終わる。

留三郎は桃色の粉が薄い水色の空へと舞っていくのを感慨深く見つめた。そして涙を目に浮かべながら桃色の粉の行方を視線で追う留三郎の顔を文次郎は見つめる。

後方から突然、春一番のような強い風が吹き付けて桃色の粉を一気に攫って行った。粉を吸いこまないようにと鼻や口を覆っていた布も同じように強く吹かれて風に舞っていく。
あまりにも強いその風に二人は目を強く瞑っていた。そして二人が瞼を開いた時に見えたのは、まるで空に桜が咲いたかと思えるような、桃色が空へと舞っている景色だった。
薄い空の色に映えるその色はとても春らしい色合いで思わず二人とも目を離すことが出来ない。

「きれいだ」

ぽつりと漏らしたの留三郎の方だった。自分が憎んだその粉が、まさか最後の最後にここまで綺麗な景色を作るなど想像すらしていなかったのだ。

「きれいだな」

文次郎は相槌を打ち、留三郎へと視線を移す。留三郎の瞳から涙が一筋零れて頬を伝っているのが見える。留三郎は自分が泣いていると気付いてないようで、段々消えて行くその桃色を凝視している。
留三郎の瞳から零れた涙に、太陽の光が反射して光る。文次郎は先ほどの光景よりもこの光の方が綺麗だと思った。

「綺麗だ」

そっと手を伸ばしてその涙を指先で拭うと、驚いたように留三郎が文次郎を見つめた。そして文次郎の指先が自分の涙を掬っていることに気付く。

「あ、俺、泣いてた?」

慌てて涙を拭おうとする留三郎に文次郎は手を差し出した。涙を拭いていた留三郎は文次郎が手を差し出した事に気付いて文次郎の手を見つめる。そして任務が終わったことに対する握手か何かかと思って手を伸ばした。
文次郎の手に自分の手を重ねた瞬間、文次郎は強く留三郎の手を引いた。そして気を抜いていた留三郎はあっさりと文次郎の腕の中へと収まる。

「え、な、に」

まだ状況が掴めていないらしい留三郎は困惑したような声を上げる。文次郎はそんな留三郎に返事はせず、ただ強く抱きしめた。ぎゅうと強く抱きしめられ、留三郎は驚いた。こんな風に文次郎に抱きしめてもらえる日が来るとは思ってなかったからだ。

「も、んじろ?」

疑問形で文次郎の名前を呼んでも文次郎は留三郎を離さない。離してほしいような離さないで欲しいような、複雑な気持ちのまま留三郎はじっとしていた。
文次郎の体温が、服越しに伝わってくる。その温度を留三郎は気持ち悪いとは思わなかった。あの男達の体温は吐き気がするほど嫌だったのに、文次郎の温度はとても心地よくて涙が零れてしまいそうになる。
そっと留三郎が文次郎の背中へと手を回し、恐る恐るその服を掴まえると文次郎は更に強く抱きしめてくれた。留三郎の瞳から、またひとつ涙が零れて文次郎の肩を濡らしてその生地の色を濃くする。
暫くして文次郎は腕の力を抜いて留三郎を体から離した。留三郎の瞳から零れ落ちるその涙を笑いながら指先で掬い、文次郎は静かに口を開く。

「お前にずっと言いたいことがあったんだ。聞いてくれるか?」

文次郎が何を言うのか分からず、留三郎の心には不安がひとつ生まれる。そして不安な表情を見せたまま、小さく頷いた。
留三郎が不安な顔をしているのを見つめて、文次郎は一度瞼を閉じる。そして今までずっと言えずに殺そうとしていた気持ちを言葉にする為に深く息を吸い込んだ。


「      」


耳に届いた文次郎のその言葉に、留三郎は驚いて目を見張った。それは予想だにしていなかった言葉で、留三郎が文次郎の口から一番聞きたいと望んでいた言葉だった。夢を見ているのだろうかと思ったが、抱き寄せてくれる文次郎の体温は暖かくてこれは夢なんかの類じゃないと留三郎は理解する。
嬉しくて、仕方なかった。信じられないと思ったけれど、それと同じくらいその言葉を信じたいとも思った。

胸の中に消えずにあった闇を、その言葉は攫っていった。
消えなかった傷の痛みが不思議と和らいで、その傷跡を風が優しく撫ぜる。
留三郎の瞳から涙が零れたけれど、それはひとりきりで耐えていた夜に流したものとは全く違う色で、きっとそれらは光を連れて来る。

文次郎が告げた言葉が自分の傷を全て救ってくれたのだと知って留三郎は文次郎に抱きつき、そして耳元に口を寄せる。それから先ほど文次郎がくれた言葉を同じように心を込めて囁いた。
きっと自分の言葉も文次郎の傷を救うのだろうとその時の留三郎は確信していた。

先ほどより幾らか優しい風が吹いて、留三郎の涙を遠くへと運んで行くのが見えた。そしてその風はやがて、二人の前に暖かな春を連れて来る。その予感を二人は穏やかな気持ちで受け入れていた。

(fin.)