秘密に愛と傷を重ねて。
空が赤から黒へと色を変えていく夕闇の時刻に食満留三郎は忍術学園の学園長の部屋へと呼び出されていた。
忍術学園の六年生である彼は、幼さの残る体に不釣り合いな鋭い眼差しのまま部屋の片隅で姿勢を正して正座をしている。他の生徒たちより短い髪は高い位置に結えられており、少し長めの前髪と短すぎて横から落ちてくる髪は鋭いその瞳を和らげるかのように顔に掛かっている。薄い唇はきつく結ばれたままで、表情はない。ぴくりとも動かずに座っている姿は一瞬人形と見間違うほどだ。薄暗い部屋で彼のその肌は光を反射して白く光り、瞳を伏せると鋭かった眼光もそのなりを潜め、随分と整っている顔をしていることが分かる。
風が吹く度に学園長が手入れをしている庭の木々たちが枝を揺らし、暗くなっていく空と相まって何とも緊迫した雰囲気を醸し出していた。
「そんなに固くならんでもよい」
学園長は姿勢を正して座っている留三郎にそう言葉を掛けた。そして湯呑みへと手を伸ばし、茶を啜る。
その動作を見つめているだけの留三郎は「はい」と返事をしたものの、相変わらず姿勢を正したままであった。
しばらくすると廊下を歩く足音が聞こえ、その足音は学園長の部屋の前で止まる。
「ただいま参りました」
その声を聞くなり学園長は「入ってよろしい」と襖の向こうにいる人物に声を掛けた。襖がすっと開いて部屋に入ってきた人物は、傍らで座っている留三郎を見るなり眉間に皺を寄せながら「げっ」と小さく呟く。
部屋に入ってきたのは留三郎と同じく六年の潮江文次郎だった。留三郎より少し長めの髪をやはり同じように高い位置で結い、留三郎とは違って前髪は真ん中で分けていた。そして目の下を薄っすらと隈らしきものが縁取っており、その為か年齢よりはずっと大人びて見える。
文次郎を視界に入れた留三郎も先程の文次郎のように眉間に皺を寄せる。声こそ出さなかったものの、その表情は嫌悪感をたっぷり表現していた。
「よし、揃ったな」
文次郎は留三郎の隣りへと留三郎と同じように腰を下ろした。二人の視線は目の間に座る学園長へと向けられている。
「潮江文次郎、食満留三郎。今からそなた等に任務を言い渡す」
「はっ」
普段よりは随分と凄みが聞いた声に、文次郎も留三郎も顔を強張らせながら任務内容へと耳を傾けた。
外では吹きつける風が段々と強くなり始めており、まるで今から嵐でも起こるかのようだった。
*:*:*
戌二つ時、忍術学園の正門から二人の人影が出てきた。それは私服姿に着替えた留三郎と文次郎の二人で、夕食を軽めに取り、弁当一つと数日分の兵糧、それ以外にも数日分の旅の準備を終えたばかりだった。
不意に留三郎が空を見上げ、それに釣られたかのように文次郎も同じく空を仰ぐ。
「もうすっかり夜だな」
「そうだな」
留三郎の言葉に同意をするように文次郎は小さく頷きながらそう呟いた。留三郎は空から文次郎へと視線を移して口を開く。
「出掛けるにしては遅すぎる」
「仕方ない。与えられた時間は四日だ」
「学園長も無茶を言うよな」
留三郎が懐から取り出したのは、先程学園長から手渡された地図だった。月は雲に隠れているために紙面に書かれている地図はほとんど見えない。しかし彼等は忍者になるべく教育を受けている者で、普通の人間より随分と闇夜で目が利くのだ。
「急いでも到着するのは明日の昼過ぎか」
地図を指でなぞりその距離を測るかのようにしていた留三郎はそう呟く。
「行くぞ」
懐へと地図を仕舞いこんでいる留三郎へと一声掛けて文次郎は歩きだした。
「あ、待てよ」
留三郎は文次郎の背中へそう声を掛けて慌てて後を追う。月が見えないため辺りはいつもより随分と暗く、一目を避けて行動するには打ってつけの夜だった。
今夜学園長が二人に命じた任務は偵察だった。学園から八里以上も離れた山奥に大きな廃寺がある。廃寺と言われるように今は使われてはおらず、誰も住んでいないはずなのだが、最近その寺付近で不穏な動きがあるというのだ。この情報は誰かが学園長へともたらしたものであり、その不穏な動きが正確にどのような動きなのかは学園長も把握はしていない。もたらされた情報は。不穏な人影が闇に身を隠してその寺を出入りしているという事と、その寺付近にある幾つかの町から若い娘ばかり姿を消す事件が相次いでいる事である。廃寺で起きている不穏な動きが若い娘の失踪事件が結びつくものなのかどうか。それを調べることが今回の二人に与えられた任務だった。
忍術学園の最高学年であるとは言え、留三郎も文次郎もまだ生徒である。しかしこの冬が過ぎて春が来れば二人が学園を卒業して忍の世界へと足を踏み入れるのだ。教師陣に頼むのは安全であり、簡単でもある。しかしそれらを考慮に入れて学園長は二人へと頼んだのである。そしてそれを留三郎も文次郎も十分に承知していた。
歩き始めて数時間後、二人はようやく休憩を取った。月ももう沈んでしまう時間帯であり、本来ならばどこか安全な場所で夜を明かすべきだろう。それでも二人は足を止めて休憩するだけで、一時間後にはまたこの地を出発するつもりでいる。それは任務内容の割に与えられた時間が四日と短いことも原因していたが、それよりも二人の関係に大きな理由があった。
「任務は別にいいとして、どうしてお前が一緒なんだよ」
川辺で水を汲んでいる留三郎を見つめながら文次郎はそう言葉を吐いた。眉間には皺が寄せられており、それはあからさまな嫌悪を示している。
「それはこっちの台詞だ」
振り返りながら文次郎を睨みつける留三郎の眉間にも同じように皺が刻まれている。
「学園長も本当に人選ミスだよな。お前となんて早く終わる仕事も終わらないだろ」
留三郎のその言葉に文次郎はこめかみをピクと引きつらせて留三郎を睨みつけた。
「それはどういう意味だ?」
「足手まといになるなって意味だよ」
「それはこっちの台詞だ、馬鹿三郎め」
「何だと?馬鹿次郎が」
留三郎と文次郎はしばらく無言のまま睨み合っていたが、蝙蝠がバサバサと羽音を立てながら二人の間を飛ぶとようやく視線は互いから外れた。
「俺はこっちで休憩取るから来るなよ」
留三郎は文次郎へと背中を向け、文次郎が腰を下ろしている岩とは反対側の茂みの方へと歩きだす。
「一時間後、此処に集合な。遅れたら構わず置いていく」
去っていく留三郎に文次郎は声を掛けたが、留三郎は振り向かない。文次郎は留三郎の背中を睨みつけていたが、その姿が木々に紛れて見えなくなると肩の力を抜いて溜め息を吐いた。視線は自然と手の平へと落ちていて、その瞳はどこか愁いを帯びている。
「…何やってんだか」
自嘲するかのようにそう呟いた文次郎は、言葉を呑みこむように水筒に口を付けた。見上げた星空にはか細い光だけを発する星が散りばめられているだけで、見慣れた空に感慨深いものなど一つもない。文次郎はもう一度溜め息を吐きながら瞼を閉じた。
*:*:*
留三郎と文次郎の仲は一年の頃から悪かった。他の級友とは上手く付き合えるのに文次郎は留三郎とだけ上手く行かないのだ。そしてそれはお互いさまらしく、隙を見つけては奇襲して殴りつけ、また落ち度をひとつ見つければ攻め立て合っていた。これらの行動は互いに対する嫌悪から来ていた。しかし、このように頻繁に拳を交えているからこそ二人は競い合えるほど技の完成度を上げたし、互いの力を認めるようにもなったのだ。そして高学年になると文次郎の中には今までになかった感情が芽生え始めていた。
きっかけは些細なことだった。
留三郎が同学年の男に言い寄られているのを目撃したのだ。相手の男は文次郎と同じい組の奴で、勉強も出来る上に武術もそう悪くない。文次郎は彼のその機転のきく頭脳を買っていた。そんな男が留三郎相手に必死になっていたのだ。女を口説き落とすかのように、綺麗な言葉を並べたてて留三郎の気を引こうとする。文次郎が苛立ったのはその男ではなく、そんな男を殴りつけずに笑い掛けた留三郎の方だった。男の言葉を受け入れるかのように笑う留三郎に心底腹が立ったのだ。
文次郎は一度も見た事のない表情で男に接する留三郎に瞬時に激しい怒りを覚えたが、その怒りが随分とお門違いなことにもすぐ気付いた。留三郎が誰とどんな話をしようが、誰と深い仲になろうが、文次郎には一切関係がない。留三郎がわざわざ文次郎の許可を得る必要もない。そんな事くらい文次郎も承知であった。
しかしそれでも苛立ちは去ってはくれず、優秀だと認めていた級友にさえも勝手に嫌悪感を抱いてしまう。このままではいけないとしばらくの間文次郎は留三郎を避け続けていたが、事の結末は予想だにしない方向についてしまった。
同じ組のその男が試験中に誤って怪我をしたのだ。それは生命を脅かすものではなかったが、忍としての生命を絶つものであった。それから半月後、体の傷を直したその男は学園を去る事になったのだ。
その男が学園を去る日、同じ組である文次郎たちは見送ることを許された。他の組は授業があるため見送ることが出来ない。
その事実に安堵を覚えてしまっていることに気付くと、文次郎はそんな自分を嫌悪した。留三郎がこの男を見送る姿を見たくないと思っていたことに気付いてしまったのである。
太陽がまだ東側の空の中腹にある時間帯に、その男は迎えに来た親と共に学園を去って行った。い組みの生徒は正門から見送っていたが、その姿が見えなくなるとそれぞれ学園内へと戻っていく。それでも一番最後まで文次郎はその場所へ立っていた。
あの男の事を勝手に嫌な奴だと決めつけていたが、夢を諦めて学園を去るその背中に同情したのだ。学園内で一番忍者をしていると自負している文次郎にとって、もしも自分ならばと考えると同情を覚えてしまうのは仕方がないことだった。勝手に嫌いになった事を心の中で詫びさえした。そして文次郎がやっとその場を離れようとした時、正門へと留三郎が走ってくるのが見えた。正門から飛び出すなり、留三郎はきょろきょろと辺りを見渡す。
「文次郎、あいつは?」
普段ならば出会いがしらに殴る事はあっても話し掛けることなどはない。それでも留三郎はそんな事を気にせずに「なぁ、もう行ったのか?」と文次郎を見つめた。
留三郎から睨まずに見つめられる事など稀だった。だからこそ文次郎も素直に「もう行ったよ」と返したのである。
「そうか…間にあわなかったな」
留三郎は眉を寄せて、男が去って行った方向を見つめた。切なげに見えるその表情に、静まったはずの文次郎の心がざわつき始める。
「アイツのこと好きだったのか?」
唐突な文次郎の言葉に留三郎は一瞬目を見張ったが、すぐに否定するかのように苦笑した。
「そういう訳ではないんだが、それでも嫌いではなかった。アイツは優しかったからな」
もう姿が見えない奴の背中を探すように目を細めたまま留三郎はそう呟く。
「…ただ残念で仕方がないだけだ。同学年も随分と減ったから」
留三郎のその言葉に、文次郎は返事を返さなかった。ただ、目の前で遠くへと視線をやる留三郎の横顔を黙って見つめていた。
陽の光が強く差し込み、視界は随分と明るい。留三郎の髪を揺らすように吹く風は留三郎の表情のように穏やかで、それなのにも関わらず文次郎の心の中は穏やかさとはかけ離れていた。嵐の前にざわめく木の枝の如く、波立つ水面の如く揺らぎ始めたのだ。
「…文次郎?」
黙っている文次郎を訝しく思ったのか、留三郎が文次郎へと視線を向けた。しかしそれより早く文次郎は留三郎から視線を外し、そのまま背を向ける。
「俺はもう戻る」
短くそれだけ告げて文次郎は一度も留三郎を振りかえることなくその場を離れた。文次郎のそんな態度に残された留三郎が何を思ったかなど、文次郎に考える余裕はなかった。気を緩めれば攫われてしまいそうな平常心を保つためにただ前を見据えて歩いたのだ。
文次郎が留三郎へと抱き始めている感情は、恋心と呼ばれるべきものであった。そしてそれだけではなく、学園を去った男に対して嫉妬していた事にようやく気付いたのである。
そして文次郎は今までなら想像すらしたことがないものを願ってしまった。留三郎にはいつも睨まれてばかりいて、ずっとこのままでいいと思っていたはずなのに先程のように穏やかな視線の先に居たいと思ったのだ。留三郎が優しく視線を投げかけるその先に、笑みを浮かべて見つめるその先に居る人物が他の誰でもなく自分でありたいと願ってしまったのだ。
「…俺は馬鹿か」
誰もいない廊下で思わず文次郎はそう吐き捨てる。
「無理だろう、今更」
そう呟いた声は苦々しく、泣きだす前のような表情は痛々しい。しかしその言葉を誰も聞いていなかった。そしてその表情も誰にも見られることはなかった。
文次郎は一度その場に足を止めた。しかし振りかえることはなかった。背後にまだ留三郎はいるだろうと分かっていたが、文次郎は苦々しい表情のまま前を見据える。そして留三郎へと芽生えた感情を振りきるように歩きだしたのだ。
正門前で立ち尽くしている留三郎は文次郎が逡巡していた事を知る由もなく「何だよあいつ」と眉間に皺を寄せて、去っていくその背中を睨みつけていた。
(2010/03/02)