一歩下がって、飛びこんで!





「潮江先輩が綺麗な女の人と腕絡めて歩いていた」

その言葉を聞いた時、思考回路が本当に止まってしまった。
目の前で次の構えをしていた小平太の動きが見えていたのにもかかわらず、体が動かなかったのだ。
そんな俺に気付いた小平太が避けてくれた為、顔面に拳が入ることはなかったが体勢を崩してしまいその場に背中から倒れ込む。

「留三郎?!大丈夫か?!」

小平太が駆け寄ってきて引き起こしてくれたが、意識は全て一年の会話の方へと向かってしまっていた。
俺が聞いていることに気付かず一年は「すごい美人だった」と甲高い声で話を続けている。

(何だよそれ、嘘だろ?文次郎が女と歩いていたなんて、そんなの冗談に決まっているよな?)

言葉にならない声が頭の中で繰り返し響いて、心配そうに顔を覗きこんで来た小平太すら意識に入ってこない。

「留三郎?」
「…」
「留ちゃん」
「…」
「とーめちゃん」
「…」

頬に柔らかい何かが押し当てられ、何だろうと顔を上げるとそれは小平太の唇だった。

「何してんだよ!」

思い切り押しやって頬をごしごしと拭くと、小平太が哀しそうな顔をしたのでやりすぎたかなと反省をして尻もちをついている小平太を助け起こす。

「留ちゃんが私の話聞いてなかったから悪いのだ」
「…ごめん」
「…一年は組が文次郎の話をしていたな」

小平太のその言葉にうまく返すことが出来ずに黙り込む。

「文次郎が女と一緒にねー…留三郎は信じるのか?」
「…知らねぇ」
「…知らないって、それ気にしてるんだろう?」
「文次郎のことなんて俺には関係ねー」

肩を掴んでいた小平太の手を振り払い、「疲れたから部屋戻る」と返せば小平太は「そうか」と俺の背中を軽く叩く。
突然機嫌を悪くした俺に文句ひとつ言わず、またその理由を深く詮索しないでくれる小平太の優しさに甘えてその場を離れた。

頭の中では、「何故」「嘘だろう」「信じられない」という言葉が無意識で繰り返される。
何故嘘だと信じたいのか、そんなことくらいはもうとっくに気付いていた。
文次郎が俺じゃない誰かに傷を付けられるのが気に食わないと思い始めた時から自分の気持ちには気付いていたんだ。
それでも今までの時間で積み上げてきたものを壊すわけにはいかなくてずっと気付かない振りをしていた。
この感情は殺すべきだ、ない方がいいとずっと思っていたのに、それなのに何故今更になってこんなにも守りたくなってしまうのだろうか。


汗と雑念を洗い流すために風呂場へと向かう途中で文次郎を見つけてしまった。
眉間に皺が寄っていることに気付いたけれど声を掛けずにはいられなかった。
噂の真相が知りたくて仕方がなかったのだ。
文次郎の口から否定をして欲しくて、「あんな噂を信じるなよバカタレ」と言ってほしかった。
バカタレと言われればいつもならすぐに拳を出すのだが、今言われても絶対に殴ったりはしなかっただろう。
それでも文次郎が口にしたのは否定でも肯定でもなかった。

「…何でお前が気にするんだよ、別に俺に女がいようがお前には関係ないだろう」

文次郎のその言葉に、一瞬泣きだしてしまいそうになった。
先程、小平太に同じような言葉を返した癖に、文次郎に関係ないと言われると泣きだしたくなる。
けれどここで泣きだしても自分の惨めさが増すだけで何にもならない。
分かっているから泣きだすかわりに文次郎を睨みつけた。
その後は涙を必死に堪えていたから何を喋ったか覚えていない。
文次郎が驚いたような顔をしていたが、引き止めるその手を振りきって逃げるようにその場を離れた。


「留くん、もう灯り消していい?」
「…」
「とーめくん」
「うっわ!」

衝立の上から伊作が覗きこんできて、ぼうっと考えことをしていた俺は暗闇から急に出てきた伊作の顔に驚いて情けない声を出してしまった。

「うわ、じゃないよ留くん」
「な、なんだよ」
「もう灯り消していいかって聞いたの」
「あ、ああ、いいぜ」
「もー、留くん今日一日ずっと変だよー?」

伊作が心配そうな声でそう言いながら衝立の向こうへと消えて行ってしまった。
ふっと蝋燭を吹き消す音が聞え、その音から少しずれて闇が訪れる。
真っ暗な闇の中で目を見開いて天井をぼんやりと見つめると「留くん」と伊作が呼びかけた。

「何だ?」
「何かあったの?」
「…別に」
「言いたくないならいいんだけど、あんまり心配させないでよ。今日一日危なっかしくて見てられなかったよ」
「…ごめん」

素直にそう謝ると伊作は暫く黙ったあとに「何かあったら言ってくれて構わないから。じゃあおやすみ」と柔らかい声で告げる。
くるりと衝立の方へ寝がえりを打ってから俺も「おやすみ」と返した。

おやすみと告げてからも眠気は来てくれなくて、夜が深まれば深まるほど目は冴えて行く。
瞼を閉じて浮かぶのは、最後に見た驚いたような文次郎の顔だった。

好きだと気付いた時にはもう遅くて、俺と文次郎はただの喧嘩仲間で定着してしまっていた。
今更色だの恋だのを持ちだす勇気なんて俺にはなく、だからせめてこのまま、この距離のままと思っていた。
六年という時間が築いたものを、たった一時の感情で壊すことは愚かな行為だと思っていた。
だからこそずっと殺して来たのに、どうして実らないと知ると実を結んでほしいと願うのだろうか。
浅ましいその願いが叶うことはないと分かっていてももがきたくなってしまうのは、それ程この感情が自分の心の深くに根を張ってしまったからだろうか。
気を緩めると、あの感情が連れてくる悲しみに意識を全て持って行かれてしまう。
先程からごそごそと寝がえりを繰り返してしまい、これ以上音を立てると伊作を起してしまうと思って部屋を出ることにした。


寝巻だけで出てきてしまい、風の冷たさに思わず肩を竦め、背を丸めて歩きだす。
この冷たい風に身を晒して歩いている方が気が紛れる気がして行くあてのないまま歩く。
廊下の床板の模様ばかりじっと見つめ歩いていたのだが、不意に誰かの気配を感じて視線を上げる。
そこには誰の姿もなかったのだが、裏庭の方から聞きなれた声が聞えて来た。

「…もんじろう?」

こんな真夜中に裏庭にいる人物など彼以外いないだろう。
俺は暫く迷ったが、裏庭に向かって歩き始めた。
廊下が終わり、裏庭に出るとそこには真夜中にも関わらず木の枝からぶら下げた小さな的へと手裏剣を投げる文次郎の姿があった。
月はすっかり満ち、その光の下、綺麗なフォームで放たれる手裏剣はどれも見事に的へと突き刺さる。
それをぼんやりと見つめながら、壁に背を預けてずるずるとその場に坐り込んだ。
ようやく俺の気配に気付いたらしい文次郎が振り返り、俺を見るなり驚いたように目を見張る。

「…留三郎、どうしたんだ、こんな夜更けに。いつも早寝のお前が珍しいな」

的に刺さっている手裏剣を抜きながら文次郎はそう問い掛けてくる。

「…眠れなくてな」
「…そうか」

文次郎の手の動きは止まったが、振り返ってはくれない。

「なぁ、文次郎」

そう呼びかけても振り返ってはくれない文次郎に、俺は普段なら絶対に言わない言葉を口にした。

「…口付してくれないか?」

その言葉に振り返った文次郎の顔を直視することは出来なくて、視線を逸らしたままた立ち上る。

「…冗談だよ、鍛錬の邪魔して悪かったな。俺はもう部屋に戻るから、じゃあまた…」

さっさとこの場から逃げ出そうとしたのだけれど文次郎に腕を掴まれて壁に押し付けられたからそれはかなわなかった。

「…留三郎」

いつもとは違う、静かな声で名を呼ばれ、「何だよ」と視線を文次郎へと移すと文次郎は怖いくらい真剣な顔をしていた。
その瞳に呑まれそうになって、視線を目から首へと逸らしてじっと言葉を待つ。

「お前俺に何か言いたいことねーか?」
「…ねーよ」
「じゃあ言わなきゃいけないことは?」
「…それも、ねーよ」
「…そうか」

掴まれていた腕から文次郎が手を離したけれど、今度は壁に手を付いている。
どうやら逃がす気はないようだ。
睫毛の長さが分かる距離、吐息が掛かる距離で文次郎は俺の名をもう一度呼ぶ。

「何だよ」
「俺は言いたいことあるんだけど」

文次郎が何を言うのか、どうしてか直感的に気付いた。
その言葉をどこかで待っていたはずなのに、聞きたくなくて耳を塞ぐ。

「…言うな」
「どうしてだ?」
「…崩れるだろ、全部、変わっちまう」
「何だよ、お前変化が怖いのか?」

鼻で笑った文次郎をきっと睨むと文次郎はすぐに柔らかい表情になった。
その表情を見つめながら耳を塞いでいた手をゆっくりと下ろす。

「変化は悪いことではないだろう」
「それでも変わるんだぞ、六年間で積み上げたものが全部変わるんだ」
「…お前なぁ、変化は過去を壊した先にある訳じゃないだろう」
「…」
「過去があったからこそここで俺らは変われるんだろうが」
「…怖いと思うのは臆病なのか?」
「さぁな。ただ、」
「ただ…?」
「俺は信じてほしいけどな」

何を、とは口にはしなかった。
けれど文次郎は俺の視線でその言葉を拾ってしまう。

「お前と俺を、もう少し信じろよ」

文次郎の指先が頬に触れる。
涙を堪えるのがやっとで、言葉など口に出来ない。
口を開いたら最後、涙と共にずっと堪えてた言葉を告げてしまうに違いない。
告げたところできっとその想いは無駄にはならない。
そう確信を得てもまだ意地が残り、俺は口にする事が出来なかった。
そんな俺に気付いたのか、文次郎は苦笑しながら「お前は意地っ張りだなぁ」と温かい手で俺の前髪を掻きあげた。

「好きだ」
「…言うなって言ったのに」
「嘘つけ、言ってほしいって顔してたろ」

文次郎は優しく笑って額をペチっと叩いた。
そして、ゆっくりと唇を重ねられる。
唇が触れる瞬間に俺は目を瞑って、文次郎に縋るようにその服を掴んだ。
触れるだけの口付けをして一度唇を離したけれどまたすぐに深く口付けられてしまう。
やっと唇を離された時に呼吸を整えながら文次郎の名前を呼ぶ。

「何だ?」
「………俺も、好きだ」
「やっと言ったな」
「うるせー」
「…あ、それと」
「…なんだよ」
「今日、女装した仙蔵とペアの任務で町に行った」
「…」
「それを見たやつが噂を流したんだろう」
「…それを早く言えよ馬鹿」
「言ったところでお前は信じなかったろ」
「…そりゃそうだけど」

視線が合うと目を細めて笑ってくれた文次郎の優しさが嬉しくて、その肩へと額を乗せる。
薄着で外に出てきた俺を温めるように文次郎が俺を抱き寄せて、しばらく文次郎の首筋の匂いを嗅いでいた。
これできっと俺たちの関係は変わってしまった。
それなのに心配していたものは何ひとつ訪れず、今胸を満たすのは穏やかで温かいものだった。
文次郎の言うとおり、変化というものは過去の延長線の先にあるものだったのだろうか。
その答えはまだ見えないけれど、ただ今は抱き寄せてくれる文次郎の温度すら愛しくて仕方ない。

「…よし、」

そう言い文次郎を押しやると文次郎は「どうした?」と聞いて来る。

「もう部屋に戻る」
「…そうか」
「寒いしな。じゃあ、また明日」
「おう。風邪引くなよ」

文次郎から離れて廊下へと上り、曲がり角の所で振り返ると文次郎はまだ俺を見ていてくれている。
「おやすみ」と声を掛けた後に、思いつきで声には出さずに唇だけで「だいすき」と告げてみた。
すると、さっきまで余裕がある表情をしていた文次郎の顔がみるみる赤く染まっていくのがわかる。
自分だけが余裕がないのかと思っていたが、きっとあいつだって同じく余裕などないのだろう。
真っ赤になって突っ立っている文次郎にひらひらと手を振ってから笑いだしたいのを堪えながら部屋に戻る。

今日一日抱えていたどうしようもない不安や悲しみはもうどこかへ消えてしまって、代りに幸せに似たようなもので心は埋め尽くされている。

「…信じてみようかな」

誰を、とまでは言わなかったが、廊下から見える、白く明るい月を見上げながらそんなことを思った。






(2010/03/19)
拍手の留三郎視点。