一歩下がって、飛びこんで!
「何がどうしてこうなった」
そう呟けば腕を絡めて隣りを歩く仙蔵が口角を上げて笑う。
唇の紅はまるで先程見た少し濃い梅の花びらの色のようで綺麗だとは思うが、匂い立つような甘い香りは胸がムカムカしてくるので離れて欲しいと切実に思う。
「仕方がないだろう、文次郎。新婚の夫婦に変装しなければならない任務なのだからな」
「それはいいとして、何故相手に俺を選んだ」
はぁ、と溜め息を吐きながらそう尋ねると仙蔵はよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに「美女と野獣という言葉を最近知ったので体現してみたくなったのだよ」と満面の笑みを浮かべる。
「野獣で悪かったな」
「別に悪くはないぞ?私の美しさが引き立つからな」
「…んで、任務が終わったんだから離れてくれねぇか?」
「遠足は家に戻るまでが遠足なのだそうだ」
「…で?」
「だから任務も学園に戻るまでが任務だろう?」
「屁理屈は分かったけど、その匂いで酔ったんだよ、頭痛ぇ」
「…この匂い袋はまだ弱いほうだぞ?お前女と一緒に居れないタイプだな」
「別に一緒にいたい女なんていねぇし」
「…なら男はいるのか?」
その言葉にはうまい返しが見つからず、無言のまま仙蔵を見やると仙蔵はにやりと意地悪く笑った。
「まぁ、私もお前なんかにくっ付きたい訳ではないしな」
仙蔵はようやく腕を離し、そして足を止めた。
同じように足を止めて振り返ると仙蔵は「先に戻ってくれ」と告げる。
「どうしてだ?」
「着替えてから戻る」
「別にそんままでもいいんじゃないか?」
「…私が着替えたいと言っているんだ。別にお前の意見は聞いてない」
「分かったよ。じゃあ先戻るぞ」
面倒な奴だなと思いながら背を向けて歩きだす。
仙蔵が離れたのにも関わらず甘い匂いはついてまわり、自分の服の匂いを嗅ぐとすっかり移ってしまっていた。
もう少しで学園が見えるはずだ。
学園に戻ったらすぐ風呂に入ろう、そう思いながら俺は口で呼吸を繰り返した。
学園に戻り、学園長への報告を済ませると一目散に風呂場へと駆けこむ。
すれ違う人たちが皆振り返るほどの甘い匂いに、誰よりも自分自身が耐えられない。
いつもより長い時間お湯に浸かり、ようやく風呂から出ると待ちかねていたかのように田村が廊下で待っていた。
「潮江先輩!」
「何だ?」
「…あの、その、町で若い女の人と潮江先輩が仲睦まじく歩いていたという噂が流れていて…」
「…は?」
「その、だから、先輩に恋人がいるという噂が流れているんです!」
すぐに思い浮かんだのは今日の任務のことだった。
確かに女装をした仙蔵と仲睦まじく町を散策し、飯を食べたり団子屋に寄ったりした。
それを誰かに見られていたのだろう。
「恋人ではない」
「え、」
「だから、恋人ではないと言ったのだ」
「え、あ、そうですか」
田村はまだ何か言いたげな顔をしていたが、そんな根も葉もない噂話の相手をしている暇はない。
「もういいか?」
「…はい」
田村をそのまま廊下へと残して六年長屋へと戻ろうと歩き始めたが、廊下ですれ違う人々が皆そわそわと落ち着きない瞳で俺を捉えるのが気に食わない。
見て来るにも関わらず誰も話かけては来ないことにさらなる苛立ちが募る。
噂話の事なら直接聞けばいいのに何故田村のように直接聞いてこないのだろうと思いながら歩いていると、廊下の向うから歩いてきた留三郎と目が合った。
いつもならすぐにも拳が飛んでくるか、無視されるかのどちらかなのだが、今日はいつもとは違い「おい、文次郎」と声を掛けられる。
「何だよ」
声を掛けられたことに若干驚きながらも留三郎の前で足を止めると留三郎は少し気まずそうに視線を廊下の床の上へと落とす。
「噂、流れているぞ」
「…あぁ、それは聞いた」
「…本当なのか?」
「…何でお前が気にするんだよ、別に俺に女がいようがお前には関係ないだろう」
いつものようなつっかかる口調でそう言ったのだが、眉を寄せて哀しそうな顔をした留三郎を見た瞬間に、こういう言い方で返すべきではなかったと後悔した。
しかし後悔はいつだって先に立たないし、後悔した時にはいつだって遅すぎるのだ。
「そうだな、お前がどこの女と付き合おうが俺には全く関係ねーもんな」
今にも泣きだしそうな顔をした留三郎は次の瞬間には眉を顰めてそう言い捨てた。
立ち去ろうと歩きだした留三郎の肩を掴んで「待て、留三郎」と引きとめたが、振り向いた留三郎は眉間に皺を寄せたままで「死んでしまえ」と口にする。
その言葉に呆気に取られていると、フンと鼻を鳴らして留三郎は去ってしまった。
拳を交えて喧嘩はすれど、暴言を吐くなんてことは滅多にない。
だからこそ留三郎のその言葉に驚いたのだ。
「…死んでしまえはねーだろうが」
思わずぽつりとそう漏らしたけれど、留三郎は既に見えなくなっていた。
あんな気弱な留三郎の表情なんて今まで一度だって見た事がない。
戦場実践で初めて人間に斬りかかった時も、こんなに酷い表情はしてなかった。
それが何だ、俺に女が居るかどうかという噂話を聞いてこんな表情をするというのか。
その表情が留三郎の心を代弁しているのだとしたら、もしかして留三郎は俺のことが…?
先程の暴言ですら都合の好いように解釈してしまいそうになり、慌てて首を振る。
根拠がないのだからそれはただの希望的観測であり、そんなものは信じるに値しない。
他の生徒の視線が自分に集まっているその場から足早に離れ、自分の部屋へと向かった。
六年長屋の自室に戻り、ほっと息を抜く間もなく「文次郎ー!!!!聞いたぞー!!!」と小平太が乗り込んで来る。
情けないことに先程の留三郎の表情に動揺していて小平太の相手をする余裕など全くといっていいほどなかった。
それにも関わらず小平太は無遠慮に肩を抱いて体重を掛けてくる。
「何だよ」
「聞いたぞ、女が出来たんだって?!」
「…またそれかよ」
「なぁなぁ、どうだった?」
「何がだよ」
「乳くらいは揉んだのだろう?」
「…お前昼間から下世話な話は止せ」
呆れてそう返せば小平太は「つまらん」と萎んだ声で呟く。
分かりやすすぎるその態度に呆れてしまい、「お前なぁ」と溜め息を吐きながら小平太を見るとその表情は意外にも真面目なものだった。
「留三郎と中庭で鍛錬していたんだ。その時文次郎が女と歩いているという話を一年がしていてな、その話聞いた留三郎を私は見ていられなかったぞ」
「…何だよ、それ。どういうことだよ」
「どういうことってそのままの意味だろう?」
「…だから、意味が分からないって言っている」
「留三郎の気持ちをお前が知らないはずはないだろう?傍で見ている私が分かるんだ」
小平太は真っすぐな目で俺を見つめてきて、その鋭すぎる視線はまるで俺を責めているようで思わず逃れるように視線を逸らしてしまった。
「一日一回拳を交えるお前なら気付かないはずがないだろう?なぁ、文次郎」
「…うるせぇな」
「ハハッ、まぁ、留三郎を傷つけたんだ。女の乳くらい揉んでないとつまらんじゃないか」
「お前は俺を責めてんのかそれとも応援してんのか、どっちだよ」
「んー?どっちもだ!」
小平太はニッシシと笑って俺の背中を思い切り叩く。
あまりにも強い力に咳き込んでしまったが、小平太がそれを気にする素振りはない。
「じゃあ、私はこれから走ってくるぞ」
「おー」
「留三郎を泣かせたら私は怒るぞ?」
「分かったから、さっさと行けよ!」
俺の返しに小平太は満足気に笑い、そのまま立ち去った。
部屋の中にひとり取り残され、まだじんじんと痛む背中を擦りながら瞼を閉じる。
小平太の言葉と先程の留三郎の表情が繰り返し現れて、心を掻き乱すばかりだ。
「…そんなん、信じられる訳ねーだろ」
小さく唸りながら床に倒れこんで天井を見つめた。
信じられないと言いつつも、小平太の言葉を聞くと、先ほど留三郎が垣間見せた表情はそれ以外に捉えようがない。
「どーなんだよ、留三郎」
天井に向かってそう呟くと、それに応えるように遠くから夜の始まりを告げるかのように哀しげな烏の声が聞えて来た。
(2010/03/19)
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