さよならのふたつ前の夜





障子を開けると墨汁を零したような空に白い光が幾つか瞬いているのが見えた。時は丑三つ時で学園内はひっそりと静まり返っている。留三郎はひとつ溜め息を吐いて廊下へと出た。
卒業を目前に控えた日々はまるで指の隙間をすり抜けていく風みたいで大切に過ごしたいのに何故かうまく掴めない。この学園で過ごせるのもあと二日だというのに気がつけば文次郎と暫く顔を合わせていなかった。委員会の後継ぎ作業などに追われている上に互いに終わらせなきゃいけない事が山ほどあると分かっているけど、それでもやはりちゃんと顔が見て話をしたいと思ってしまう。

「我儘かなぁ」

ぼんやりと空を仰ぎながらそう呟くと屋根を何かが転がってくる音がした。コロコロという乾いた音が止んだ瞬間、屋根から欠けた瓦が落ちてきた。結構大きなその欠片を手に取りながら留三郎は屋根を見上げる。屋根の修繕はまだ済んでおらず、登らないようにと忠告の張り紙まで出したというのに誰かが登ったのだろう。こんな時間に動いている人間と言えば教師や上級生くらいで、留三郎はどうせ前科のある五年の鉢屋三郎か四年の滝夜叉丸だろうと目星をつけて欠けた瓦を懐に入れて屋根へと登ろうと視線を上げたまま髪を掻いた。


ぴゅうと風が吹き、その冷たさに留三郎は肩を竦める。屋根の上にもなると風を遮ってくれる物が何ひとつないのだ。春といえど夜になると気温は下がり、風も冷たかった。それでも無断で修理中の屋根に登っている生徒に注意するだけだからと留三郎は寝巻を身に着けただけで屋根の天辺まで登った。
 濃淡の闇が霞む中、屋根の上に腰を下ろしていたのは文次郎だった。予想外な人物に一瞬面喰った留三郎だったが、すぐに文次郎の傍へと歩み寄る。会いたい人に会えたというのに、開いた口から飛び出すのはいつものような可愛げがない声と言葉だ。

「…屋根、修繕の最中だから登るなって張り紙してたのに見なかったのかよ」

少しだけ咎めるような口調で文次郎を横目で見たまま留三郎は呟いていた。

「ん、知ってたさ」

文次郎は短くそう言い、視線を夜の山から留三郎へと移す。そしてそのまま少しだけ笑う。
出会ってからの大半の時間を喧嘩仲間、好敵手という関係で過ごしていたからこんな風に笑いかけてもらった経験がそれ程あるわけもなく、どう反応していいのか留三郎は未だ分からなかった。思わず視線を逸らして目の前に広がる山を見つめた。

「お前、就職先決まったんだろう?」

文次郎の声は穏やかで今までの関係がその形を変えた事を実感する。今までなら文次郎がこんな穏やかに自分と話してくれることなんて少なかったのだ。

「決まった。卒業に間にあって良かったよ。俺だけ就職浪人するなんて真っ平御免だし」

伊作は留三郎より少し早く遠方の城へ仕える事が決まっていてこの学園の六年で就職先が決まっていなかったのは留三郎だけだったのだ。それももう過去の話であり、文次郎の言った通りつい先日留三郎の仕える先が決まった。
文次郎は留三郎と同じ方向を見つめながら風に消えてしまいそうな小さな声でぽつりと呟く。それは文次郎が仕える先になった城の名前と留三郎が仕える先になった城の名前だった。

「…お前がそこに決まったって聞いて安心した。もしかしたら敵対している城に決まるんじゃってずっと考えていたから」
「…うん、俺も」

留三郎は小さく頷いて文次郎の隣りへと腰を下ろした。目の前に広がるのはさまざまな濃さの黒。たまに光る星の瞬きがまるで誰かの鼓動のように震えている。
先に文次郎が言った事と全く同じ事を留三郎も考えていた。早く決まってほしいと思う反面、決まらなかった時に浮かんだ安堵の正体はそれだったのだ。自分の中にある矛盾する感情を押し殺す以外に留三郎はどうする事も出来なかった。まさか文次郎に不安をぶつけるわけにもいかないし、そんなことしようとも思えなかった。この不安は自分だけではなく忍術学園にいる生徒なら少なからず誰でも持っているもので自分だけ誰かに甘える訳にもいかない。

「本当によかった」

本心が籠った文次郎の言葉に留三郎は思わず唇を噛む。忍者にとって仕える主が唯一なのだから敵対せずに済んでよかったなど本来なら口が裂けても言ってはいけないのだ。そんな事を口にするということ自体まだまだ忍者として甘いという証拠であり、そしてその甘さは命取りになる。それでも、誰よりも忍の道に対して厳しかった文次郎がそう言ってくれたことが留三郎にとっては涙が出そうになるほど嬉しかった。留三郎も文次郎と同じ事を思っていたから尚更だ。

「俺も」

膝を抱き寄せるようにして留三郎は俯き、ぎゅうと手に力を込めた。
これから先のことを考えると目の前に道なんてない事がわかる。あるのは闇、もしくは泥沼。そこを歩いていかなければならない二人にとってこうやって肩を並べていられる今が奇跡みたいな時間なのだ。

「文次郎がそんなこと言うなんて思ってなかった」

留三郎は詰めた息を吐き出しながらそう言い、視線を文次郎へと向ける。文次郎は少し驚いたような顔をしていた。

「まぁ、何かあったら俺がお前守るし」

そんな選択肢を選べるはずはないことは分かっている。けれど自分と敵対したくないと思ってくれる文次郎に言わずにはいれなかった。
精一杯の笑みを浮かべて留三郎が文次郎を見つめると文次郎は眉間に少しだけ皺を入れて留三郎の頭を軽く叩いた。思いもよらない反応に留三郎は驚いて目をぱちくりと開いたまま頭を撫でる。

「な、なにすんだよ」
「それはこっちの台詞だよ。何で俺がお前に守られるんだ?逆だろ?」
「は?何で逆なんだよ、お前くらい俺が守れるって」
「お前に守られるなんて死んでも御免だ!」
「俺だってお前に守られるのなんて御免だぜ!」

きぃっと睨みあったまま声を荒げて言い争う二人はどちらとも折れる様子はない。そんな二人がそのまま暫く口論をしていると遥か下方から「密会するなら少しは静かにしろっ」と文次郎の同室である立花仙蔵の叫び声が聞こえてきた。その声に二人慌てて口を抑えて黙り込んだ。二人が黙ると辺りはシンと静まり返る。真夜中に屋根の上で口を手で抑えながら顔を合わせているこの状況が留三郎は段々おかしくなってきて、今にも笑いだしそうになってしまった。目の前の文次郎も同じように笑いを堪えている。

「ぶっ」

最初に笑いだしたのはどちらだったかは分からない。ただどちらか笑いだした瞬間、もう片方も釣られて笑いだした。辺りには二人の笑い声がこだまする。

「真夜中に、屋根の上で、二人揃って仙蔵に怒られた」
「あはは、一年の頃と全然変わってねぇー」

顔を見合わせては笑い転げ、今度はその笑い声に仙蔵の声が飛んでくる。二人はまた口を抑えながら声を殺し笑いあった。
ひとしきり笑い終え、留三郎と文次郎ははぁ、と息を吐く。そして今度は黙って空を見上げた。黒の色合いが薄れてきているのはもう夜明けが近付いているからだろう。
朝が来る、そう思って留三郎が深呼吸をした時、ぴゅうと冷たい風が吹いて思わずくしゃみをしてしまった。あまりに長時間風に当たっていた所為で体が随分と冷えてしまっているのだ。

「そんな薄着だからだろ」

留三郎とは違って寝巻の上から半纏を着た文次郎が留三郎の腕を引き、足の間へと座らせる。そして背後からぎゅうと強く抱きしめた。

「春っていっても夜は冷えることくらい分かるだろう」
「注意したらすぐ降りるつもりだったんだよ」

留三郎は文次郎へと不貞腐れたように返し、そして振り向いた。すると思ったよりも文次郎の顔が近くて思わず息を呑む。こんなに近付いたのは随分と久しぶりでどうしていいのか分からない。
ぱっと視線を前に戻した留三郎を文次郎は背後からぎゅうと抱きしめる。目の前の冷たい体が気になって仕方なかったのだ。早く温まらないだろうかと思いながらぎゅうぎゅう抱きしめているとそのうち留三郎の手が文次郎の手に重ねられ、そして指を絡めてきた。
こんな距離で触れあう日が来るなんて少し前の自分は露ほども思ってなかっただろう。そう考えると今のこの状況は幸せ以外の何物でもない。文次郎は幸せを噛みしめて微笑み、更に腕に力を込めた。

「もんじ、苦しい」

あまりにも強く抱きしめられて苦しくなった留三郎は文次郎の手を緩めさせながら振り向いた。文次郎との距離はないに等しい。さっきまで冷たかった体は文次郎と触れ合っている部分から段々と温かさを取り戻している。

「そういやさ、」

そう口を開いたのは文次郎だった。留三郎は文次郎の肩へと頭を預けながら静かに「何だ?」と返す。

「お前んとこと俺んとこの強化合宿が合同って知ってたか?」
「え?本当か?」
「本当だ。確か入隊して二日目からだから、七日後には一緒に山で合宿だぜ。ちなみに俺らのとこは小平太も一緒で、仙蔵と伊作と長次んとこもやっぱり共同合宿だってさ」
「…何だよそれ。今までとあんまり変わんねーじゃん」
「そうだな、変わらないな」

文次郎は嬉しそうに目を細めて笑い、それを見て留三郎も笑う。
これからどうなるかの保証なんてひとつもない。いつ敵対してしまうかも分からない。それでも七日後にもまだ顔を合わせていられる。敵同士ではなく味方として変わらずに笑っていられるのだ。それがこんなにも嬉しい。

「変わらなくてよかった」

留三郎が思わず漏らしたその言葉に文次郎は頷いてくれた。そしてまた抱き寄せてくれる。その腕の中で温もりを感じる事が出来るのがまた嬉しくて留三郎は小さな声で文次郎の名を呼んだ。
「ん?」と言って留三郎へ視線を落とした文次郎は睫毛が触れ合うほど顔を寄せて留三郎の名を呼ぶ。そしてゆっくりと唇を重ねた。
重ねただけの唇を離して留三郎は目を瞑ってぎゅうと文次郎を抱きしめる。文次郎もそれに応えるように留三郎を抱き寄せてくれた。人の体温がこんなに心地良いものだったなんて留三郎は文次郎に抱きしめてもらうまで知らなかった。もし文次郎が教えてくれなかったらもしかしたら一生知らないままだったかもしれない。
暫くそのままでいた二人だったが空が白み始めるとさすがにその手を緩めた。

「…朝だ」
「…やべぇな、今日も仕事山積みだ…」
「俺もだ…つーか、お前何で修繕最中の屋根に登ったんだよ!また瓦割れちまったろ!」

留三郎が思い出したように懐から割れた瓦の欠片を取り出すと文次郎が「あー…」と歯切りの悪い呻き声を上げる。

「言わないと瓦代また会計委員に請求すっからな」
「…修繕中の屋根に登ったらお前が来るかなって思ったんだよ」

ふいっと視線を留三郎から逸らした文次郎の耳が赤い。その赤と言葉に思わず留三郎まで赤くなってしまう。

「…たまには俺にも構えよな」
「そりゃこっちの台詞だって」

そんな風に互いに顔を赤く染め、恥じらう姿は年頃の子供にしか見えない。それでも彼等は必要に迫られたら闇に身を隠しその手で命を奪う事を躊躇わないだろう。到底抱えきれないような極端な二面性を彼等はその胸に潜めているのだ。でもそれは自分だけではない。同じように抱えている人がいることを二人は知っている。

「顔洗ったら朝飯だな」
「俺、伊作起こしてこなきゃ」

留三郎は立ちあがり、文次郎が座っている事を確認するとその手を差し出す。

「さっさと仕事終わらせようぜ」
「ああ」

留三郎に手を借りて立ちあがった文次郎はそのまま留三郎の肩を軽く叩き、先に屋根から降りていった。

「あ、瓦代後で請求に行くからな!」

屋根を下りて見えなくなってしまった文次郎へ留三郎は声を張り上げてそう叫ぶ。留三郎のその言葉に文次郎からの返事はなかったが留三郎も返事を期待してたわけではないので気にせずぐいと大きく背伸びをする。修理の済んでいない瓦が欠けた屋根の上で朝日に赤く染まっている空を見上げながら留三郎は「いい天気になりそうだ」と笑みを浮かべた。


おわり






あとがき

『秘密に愛と傷を重ねて。』の後日談が読みたいという言葉を貰って早何ヶ月…やっとその後を妄想する事が出来まして後日のお話を書く事が出来ました。
卒業式の二日前だから「さよならのふたつ前の夜」という何とも安直なタイトルですが、まぁ、タイトルセンスがないのでそこは開き直ります。センス募集。
あの二人は想いを互いに告げるまでが本当に大変だったので後の人生はのんびりとまでは言えなくても卒業まではせめてのんびりしてほしくて書きました。
お幸せに…!笑

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(2010/07/26)