雨を食む





なぜ雨が降るのか。
その問いの答えだというように指差された先には雨に濡れた紫陽花が花弁を揺らしていた。


梅雨入りして本格的に雨が降り始めたのは五日ほど前だった。
空は常に煤色のような分厚く暗い雲に覆われて青色は見えず、重く垂れこむその雲の所為か仙蔵などは片頭痛が止まないと言っては寝転がっている。止んでない時間の方が短いほど雨は降り続けていて、こうも雨ばかりだと気持ちも晴れず、五日目にもなると倦怠感が学園全体を覆い始めていた。
雨が降れば雨が降っている時にしか出来ない鍛錬をすると意気込んでいた文次郎でさえもこの空模様にうんざりし始めていた。じめじめとした湿気が気に障り、放っておくとすぐに黴が生えるのも文次郎の機嫌を悪くさせる一因だったが、要するにちっとも晴れ間が覗かないことが全ての原因である。

雨が降っている時にしか出来ない鍛錬は三日くらいで一通り終わってしまい、外で雨に濡れて鍛錬するにも少々飽きて来た文次郎は五日目には欠伸をしながら部屋で横になっていた。
太陽が既に昇っている時間ではあったが分厚い雲がその光を遮っている為、部屋の中は薄暗い。隣りの布団ではまだ仙蔵が寝ていた。
普段より随分と長い時間寝た文次郎はもう一度寝ることが出来ず何度も寝がえりを打ち、雨漏りして染みが出来た天井を見つめながら雨音へ耳を澄ましていた。文次郎の睡眠時間は他の人と比べると随分と少ない。ので文次郎が眠り過ぎてもう眠れずに寝がえりを繰り返す傍で寝ている仙蔵にとってはまだ朝早く、睡眠時間が足りないのである。

「…文次郎」

機嫌が悪そうな仙蔵の声に文次郎は顔を向けた。
すると布団から顔を出した仙蔵がいつもの半分しか開いていない目でギロリと文次郎を睨みつける。

「寝がえりうるさい。部屋にいたいなら指一本動かすな」

仙蔵はそれだけ言うと瞼を閉じて寝息を立てる。
文次郎自身は眠る時は何をされても起きないけれど、仙蔵は眠りが浅い方で微かな物音や人の気配でも目を冷ましてしまうのである。
もう一度起してしまうと今度は容赦なく拳が飛んでくるだろうと予測した文次郎は静かに布団から抜け出し着替えると、足音を立てないように部屋を出た。

廊下は部屋の中よりも空気が冷たく、床板の冷たさに思わず足の指を丸める。
雲はまだ分厚く、今日も太陽が覗くことはないだろう。

部屋を出た文次郎に予定などなく、廊下をペタペタ歩きながら学園内をうろつくことに決めた。食堂からは美味しそうな匂いが漂っていて誘われるように顔を覗かせると食堂のおばちゃんが皆の朝食を作っている。
学園の生徒だけでなく教師の分も作るおばちゃんは忍術学園で一番逞しいと文次郎は密かに思っている。

「あら、潮江くんじゃないのー早いわねー」

文次郎に気付いたおばちゃんは少し手を休めて声を掛けてきた。

「お早うございます」
「おはよう。朝食はもう少し後に食べに来てくれる?まだお米が炊けてないのよ」
「わかりました」

おばちゃんが漬物を切り始めたのを見届けて文次郎は食堂を後にした。


低学年の長屋を通りかかると早起きな生徒たちが廊下を走っていた。
普段なら廊下を走る生徒を見つけるとすぐに怒号を飛ばす文次郎も、今日だけは見ていない振りをした。雨が降り続けていると外で思い切り体を使うことなんて出来ないのだから廊下を走るくらい多めに見てやろうと思ったのだ。

「あ、潮江先輩!」

一年は組の団蔵が文次郎を見つけてその足を止める。
その表情を見ると少し蒼ざめていて、怒られると思っているのだろう。文次郎が苦笑しながらその髪をくしゃっと優しく撫でるとその瞳は少し驚いたように見張られた。

「廊下は濡れていると滑るから気を付けろよ」
「…え、あ、はいっ!」

背筋をピンと伸ばして返事をした団蔵に片手を振り、文次郎はそのまま廊下を歩く。
その背中の向こう側で団蔵が同じく廊下を走っていた金吾へ、恐らく本人は声を潜めているのであろうが「怒られなかった!」と報告するのが聞えてきた。
普段はそんなにガミガミ言っていたかなと思わず日頃の自分の行いを思い返してみたが、自分が思い返す限り注意はしても叱ったことなんて数える程しかない。文次郎にとっては注意のつもりが、団蔵には叱られているととられていることに文次郎は気付けなかった。


廊下の屋根から伝い落ちて来る滴が廊下の端を濡らしている。それに足を取られて滑りかける。誰にも見られていなかったかと辺りを見渡すと廊下に人影はなく、ほっと安心の溜め息を吐いたとき、窓越しに目が合った。
そこは図書室で、図書室の中にいる人物は無表情を顔に張り付けたまま少しだけ口角を上げる。その時文次郎は見られた相手が長次でよかったと胸を撫で下ろしながら図書室の扉を開けた。

図書室は本と埃の独特な香りがするものだが、雨が降る今日はその匂いがいつもより強い気がした。
文次郎は机の前で正座をしながら図書委員の仕事をする長次の傍らに腰掛け、壁に凭れて窓から見える分厚い雲を見つめる。穏やかな朝も嫌いではないが、それでも何日も同じような日々が続くと退屈だと思うのはどうしようもなかった。
ふああと大きな欠伸をしてごろりと寝転がって近くにあった本を開く。長次がその姿勢を咎めるように視線を向けて来たが、文次郎は気付かないフリをした。

雨音は休むことなく聞え続け、開いた本を半分ほど読んだ辺りで文次郎は体を起こした。大きく伸びをして本を閉じ、先ほどあった場所へと戻しながら長次へと視線を向ける。
長次は本を読む前と同じ格好で作業を続けており、長時間同じ姿勢のままで疲れないのだろうかと文次郎は考える。しかしそれらは余計な世話であり、またそれを文次郎が言葉にすることもなかった。

「退屈だ」

ぽつりと文次郎が言葉を吐くと長次が手を止めて文次郎の方へ視線を向けた。

「梅雨といっても降り過ぎだと思わないか?こんなに雨が降れば植物だって駄目になる。この雨で得するものはないんだ。何の為に降っているのだ」

そんなことを長次へと言っても意味がないと分かっていながら文次郎は吐き出していた。雨が降り続けて生徒達がつまらなさそうにする中、普段と何ひとつ変わらない様子の長次へ愚痴を漏らしたのである。

「梅雨なんぞさっさと終わってしまえばいいのに」

強い口調で言いきった文次郎に長次は何も言うことはなく、静かに立ち上る。図書室内では静かにしなければならないのに話しかけてしまったことを怒っているのだろうかと思ったのだけれど、長次の表情はいつものように穏やかでそれは思い違いだと文次郎はすぐ気付いた。
長次は静かに図書室の扉を開け、そして庭先を指した。
そこに何があるのか知りたくて文次郎は膝をついたまま廊下際まで移動して庭先を見つめる。
長次の指している先にあったのは雨に濡れている紫陽花だった。

「え、紫陽花がなんだ?」

長次が紫陽花を差した理由が分からず首を傾げながら長次を見上げると長次は薄く笑みを浮かべてまた机の前に戻った。そして先ほどと同じ作業を再開する。文次郎はしばらく長次を見ていたが、長次がそれ以上何も言うつもりがないと気付くと今度は紫陽花へと視線を移した。
暗い雲が日光を遮っている為、辺りは全てどこか薄暗いのだけれど紫陽花の花だけはその鮮やかな色を見せていた。雨粒が花弁を伝って落ちる。その雨粒さえ紫陽花の鮮やかなその花弁を彩るための道具のようにすら思えるのは晴れ間の時より雨が降っている時の方が紫陽花が綺麗に思えるからだろうか。


『何の為に雨が降っているのか』という文次郎の問いに長次がくれた答えは紫陽花だった。


文次郎は図書室を抜け出して廊下へと腰を下ろし、紫陽花を見つめる。
この梅雨の時期に咲く花の中で一番雨に映える花は紫陽花だろうと文次郎も思った。こんなに暗く日光が差さない中で鮮やかな紫を見ればきっと誰だって同じことを口にすると文次郎は思う。
雨に打たれている紫陽花を見つめ、思いついたようにその花弁へと手を伸ばす。冷たい花弁は渇いた指先にぴたりとくっついた。
まるで日光など要らず、雨だけで咲いている花の様だと思う。


「雨の花、か」


雨が雨以外の何かに形を変えるとしたらきっと紫陽花になるのだろう。
何の根拠もないけれどその時の文次郎はそう思った。
指先へとくっついてきた花弁をもいで文次郎はその花弁を口へと運んだ。
鮮やかな紫色の花弁は何の味もなく、ただ舌へとぴたりと寄りそう。その花弁を噛みしめながら視線をふとあげると視線の先、庭を挟んだ反対側の廊下にいた人物と目が合った。

「お前、今紫陽花食ってなかった?」

走ってやって来た留三郎は驚いたような顔をしたまま大きな声で尋ねて来た。
俺は静かに唇の前へ人差し指を出し、図書室と書かれている札を指差す。
留三郎は声を少しだけ潜め「いや、今紫陽花食ってたろ?一年生が真似したらどうすんだよ」と怒ったような声で告げる。
留三郎とは喧嘩ばかりしているけれど、今は喧嘩する気はない。文次郎は静かな瞳で留三郎を見つめて薄く笑みを浮かべた。

「雨」
「は?」
「長次が、紫陽花は雨の花だって言うから。どんな味なんだろうと思っただけだよ」
「…で、どんな味だったんだよ」
「雨の味」

驚いたような顔をした留三郎を笑いながら文次郎は腰を上げ、その場を立ち去ろうと歩きだす。
その背中へと留三郎は声を掛けることをせずに見送り、その姿が見えなくなってから紫陽花へと向き直った。
雨は弱まり、小さな雨粒が紫色を滲ませている。
雨粒が乗っている花弁へと手を伸ばし、その花弁を千切り取った。そして先ほど文次郎がしたように、留三郎はその花弁を口へと運ぶ。

舌へと貼りついた花弁を噛みしめながら留三郎が見上げた空からは相変わらず雨が降り続けていた。





(拍手話リサイクル)