ずるさの温度は38度





はっ、と短い息を吐いて、薄っすらと留三郎が目を開けた。
汗で前髪が肌に貼りついていて、俺は清潔な手拭で彼の顔を拭いてやる。
瞼が重いのだろうか、少しだけ目を開けたまま留三郎は俺を見ると少しだけ目を見張った。

「喉乾いたか?」

冷たい水がいいだろうかと、湯呑みを探していると掠れた声で「もんじろ?…伊作は?」と尋ねられた。
「何でお前がいるんだよ、」と言外に告げるような瞳で留三郎は俺を見る。

「医務室だ。低学年の間で流行り出したみたいで処置に追われているよ」
「…そっか」
「水飲むか?」
「…あぁ、もらう」

緩慢な動きで身体を起こした留三郎は水を淹れている俺をぼんやりと見ていた。
熱が高く息苦しいのか唇は薄く開いたままで、目元は少し腫れて赤くなっている。
湯呑みを差し出すと留三郎はゆっくりと手を伸ばして来た。
しかしその手はしっかりと湯呑みを受け取る事が出来ず、湯呑みは滑り落ち、水は布団の上へと零れてしまう。

「あ、バカタレ!」

ぼんやりしたままの留三郎は俺の言葉に反応せずに零れた水が布団へと染み込んでいくのをただ眺めている。
慌てて隣りに置いていた手拭で零れた水を拭き取った。
もう一度湯呑みを渡すと、留三郎は小さな声で「悪ぃ」と告げる。
その言葉に「今度は零すなよ」と念を押し、今度こそちゃんと湯呑みを手渡した。
少し触れただけの指すら熱を持っている為とても熱い。
留三郎は湯呑みに口を付けたが、唇を緩くしか閉めなかったせいか飲みきれなかった水が唇から漏れた。
それを手の甲で拭い、まだ水が残っている湯呑みを俺へと押しやる。
その湯呑みを受け取ろうと手を伸ばした時に、腕まで引かれてしまった。
ぎゅっと俺の腕を引いた留三郎が、俺の肩へと額を乗せる。
「はぁ、」耳元で吐かれる吐息は熱の所為だと思っていても色っぽく聞えた。

「もんじろ」
「何だ」
「今日は殴んないのか」
「喧嘩を吹っかけてくるのはいつもお前の方だろ。それに病人相手にそういう事はしない」
「ふーん」

留三郎はそれだけ言うと黙り込んでしまった。
じっと俺に凭れたまま動かずにいる。
目の前の留三郎の体温がいつもよりずっと高いのが布越しに伝わってくる。
じわじわと、まるで俺まで感染するかと思うほど、熱が伝わってきて調子が狂う。

「肩を冷やすな、ばかもん」

無防備に冷たい空気に晒している留三郎の背中へ半纏を掛けてやると留三郎は「有難う」と呟いた。
普段は文句や愚痴しか言わない留三郎に「有難う」などと言われるのは稀なことだった。
少しだけ驚いていると留三郎が顔を上げて俺の顔を見つめる。

「寝る」
「おう、寝ろ」

留三郎は「寝る」と宣言したにも関わらず、じぃっと俺の顔を見つめている。

「寝るんだろ、ほら、横になれ」
「…お前は?」
「俺?」
「…俺が寝たら部屋に戻るのか?」

こほこほと咳を挟みながら留三郎は不安げな顔でそう聞いてきた。

「お前の看病をするように伊作からきつく言われている。勝手に帰ったら後でどやされる」
「ふーん」

留三郎が少しだけ嬉しそうな顔をしたように見えたが、すぐに無表情へと戻る。
もしかしたら俺の見間違いだろうか、そんな風に思った。

「ふーんてな、お前。もうちょっと「看病してくれて有難う」くらいはないのか?」
「ざまあみろ」
「お前なぁ。大体風邪ひくなど精神力が弱い証拠だ。鍛錬しろ」

俺の言葉を聞いているのか聞いていないのか、留三郎は無反応のまま布団に横になる。

「もんじろ」
「何だ」
「…俺が起きるまで、其処に居ろよ?」

掠れた小さな声で留三郎はそう言った。
一瞬、聞き違えたかと思った。
起きる前に帰れと言われるとばかり思っていたのだ。

「起きて其処に居なかったらぶっ殺すからな」

横になった留三郎は布団に潜り込んだまま俺に背を向けているからどんな表情をしているかは見えない。

「ちゃんと居る。さっさと治せ」

布団を軽くぽんぽんと叩くと、留三郎が小さな声で「有難う」と呟くのが聞えた。
まさか一日に二回も留三郎から感謝されるなんて思ってもみなかった。
それもこれも留三郎が熱にうなされているからだろうか。

しばらくすると眠りに落ちたのか、留三郎の寝息が聞こえてきた。
規則正しい寝息に、無意識に頬が緩む。
寝がえりをしてこっちへ顔を向けた留三郎の表情は、熱にうなされているはずなのにとても穏やかで、汗で貼り付いた前髪を掻きあげながら、随分幼い寝顔をするのだなぁと思った。

「普段は生意気なことしか言わねぇ癖にな」

たまには可愛いこと言うじゃねーか、と思ったが、きっとそれも熱が出ている為だろう。
熱が下がった留三郎なら起きるなり「何でいるんだよ」と文句を言ってきそうだ。
留三郎が俺に可愛い事を言い、隣を許すのは大抵今のように熱でうなされている時だけだ。

「お前はずるいな」

言葉の意味とは裏腹に、思ったより優しい声が出てしまった。
先程から留三郎の額を撫でる手つきも、いつも殴り合いをしているとは思えないものだ。
俺がこういう手付きで留三郎に触れるのも、留三郎が熱を出している時だけだ。

「調子狂うからさっさと治せ、バカタレ」

留三郎の額を軽く叩くと「うーん」と留三郎が呻いた。
それがあまりにも間抜けな顔だったから思わず笑ってしまう。
くっくと声を殺して笑っていると留三郎が重たげに瞼を持ち上げた。

「もんじ」

俺を認識したのか、ふにゃっと笑って留三郎は俺を呼んだ。そして腕を布団から出し、手を伸ばしてくる。

「側に、居ろよ」

瞼を閉じながら留三郎はそう言い、語尾は小さく消えて行く。
彼が伸ばした手は俺の手を掴み、その手は目を閉じても離されることはなかった。
体温が高くなっている彼の手はあまりにも熱く、手を握られているだけなのにまるで心臓を掴まれたかのように錯覚してしまう。
穏やかなその表情は、俺が此処にいるからなのか。
そんな事を考えてしまうほど安心しきったその寝顔に、心が融かされていく。

「お前、本当にずるいぞ、馬鹿留」

留三郎の手を握りしめながら呟いた声は自分が驚くほど優しく、まるで愛を囁いているみたいだと思った。







(2010/1/29)
( お題サイトからおかりしました )