喪失予行演習




朝目を覚ますと、廊下を歩く小平太のひたひた、という足音が聞えた。
空気が冷たく、思わず背を丸めて布団の中へと潜り込む。

この部屋はいつもより寒い。
その原因を僕は知っていた。

仰向けに寝がえりを打ち、息を吐くと部屋の中にも関わらず息は白く染まって溶けていく。
雪でも降っているのだろうか。
あまりにも冷たい空気に鼻の奥がツーンとして涙がこぼれそうになる。
寒いから泣いているのか、哀しいから泣いているのか、それとも別の何かなのか。
僕は分からずに瞼を閉じる。
つ、と涙が頬を伝っていき、そこからひんやりと冷えていく。
その冷たさが今は心地よいものに感じた。

いつまで横になっていても僕を叱ってくれる人はいない。
分かっているから僕は体を起こした。
衝立の奥を覗くと其処には布団が畳まれ、その傍らに枕が置かれている。

ひたひたと足音を鳴らして近付き、そっとその布団へと触れた。
気温と同じくらい冷たい布団に指先が触れる。

人が一人いないくらいで、この部屋の気温は耐えられないものに変わってしまう。
寒くて頬も指先も足も凍ってしまったかのように冷たい。
それを気にして火を焚いてくれる人はいない。

畳まれていた布団を敷き、その中へと包まって天井を見つめた。
一人きりだからか、いつもより酸素がずっと濃い。
それなのに上手く呼吸が出来ている気がしなかった。
瞼を閉じると、ぽろぽろと涙が零れて布団を濡らす。
布団の色を少しだけ変えたその水を横になりながらぼんやりと見つめていた。

この部屋にひとりきり。

そう考えるだけで心まで冷たく凍ってしまいそうだ。
あぁ、もういっそのこと凍ってしまえばいいのに。
ひとりきりだという実感を湧かせてしまう視界を見つめ続けられず、瞼を閉じる。
暗い瞼の裏側に、あの笑顔を思い出すと勝手に涙が幾筋も零れてしまった。


「伊作?何してんだ?」


瞼の向う側にある光を何かが遮ったと思ったらその影がそう言った。
瞼を開くと、僕の顔を覗き込む留三郎の顔がそこにある。

「おかえり」
「ただいま。お前、人の布団で何してんだよ」
「ん?少し包まってただけだよ」

体を起こそうとすると留三郎が手を差し出してくれ、僕はその手を取った。

「冷たいな」

僕を起こした留三郎は、手を離さずにそう呟いた。

「ひとりきりだとこの部屋は寒すぎるよ」
「…そうか。熱いお茶でも淹れるからもう起きろよ?」

留三郎は優しく微笑みかけ、僕の頭を撫でてから水を汲みに外へと出て行ってしまった。
布団を見ると、僕が零した涙の跡はすっかり消えてしまっていた。
留三郎の布団の中に坐りこみながらぼんやりと考えていると留三郎が帰ってきた。

「伊作?まだ其処にいるのか」
「寒くて動けない」
「お前なー忍者というものは…」

めんどくさいことを言い出そうとした留三郎に、「どっかの誰かの口調と似ているね」と言えば留三郎は黙ってしまった。

「お使いはどうだった?」
「どうって、まさか泊まりになるとは思わなかったな」
「しょうがないよ。あんなに雪が降っていれば、先方だって引きとめるさ」
「でもお前めそめそしてたじゃねーかよ」

留三郎のその言葉に僕は一瞬、返す言葉もなかった。
お茶の葉を見つめていた留三郎の視線が僕の方へと投げかけられ、彼が心配してくれているのが分かる。

「夢見でも悪かったのか?」
「…そんなところかな」

笑ってそう答えたのに留三郎の顔はまだ心配そうだった。

「お茶はまだ?」
「もう少し掛かる」
「じゃあ僕はちょっと厠行ってくるよ」
「あぁ」

襖を開けて廊下へ出ると其処から見える景色は白ばかりだった。
吐く息は全て真っ白に染まっていく。
白を吐き散らかして歩き、ふと足を止めて灰色に垂れこんだ空を眺めた。

雪が溶けて春になればもうこの学校を卒業する。
友と呼び、その存在に甘えられるのももう僅かな時間しか残っていない。
留三郎を喪う想像をして泣いていたなど口が裂けても言えるはずはなかった。

「伊作」

廊下で急に声を掛けられ、振りかえると留三郎が部屋から顔を出していた。

「菓子持って帰ってきてるから、早く帰って来いよ」

まだ廊下で立っている僕へそんな言葉を掛けてくれる留三郎に何故か泣き出してしまいたい気持ちになり、「わかった」とすぐに返したけれど上手く笑えた自信はなかった。
また鼻がつーんとしていて、今すぐ泣きだしたくなってしまう。
留三郎の表情が少しだけ曇ったのが遠目からも分かった。
そして次の瞬間にはその顔は部屋の中へと消えてしまう。
いつの頃からか泣く時はひとりきりになる彼も、僕と同じように泣いてしまったのだろうか。
そんな事を考えながら空を見上げると、分厚い雲の隙間から太陽の一筋の光が洩れて僕の親指を照らした。





(2010/01/16)

( お題サイトからお借りしました )