春の月とキスと夜






目の前で、光が瞬いた気がした。
暗闇を見つめるとカーテンの隙間から通り過ぎる車のライトが漏れてくる。
あぁ、と小さくため息をついて窓の方へ背中を向けた。
車の音が遠ざかるのを確かめて枕へと顔を埋める。

確か、と思いだす。
確か、昨日のこの時間に僕は留三郎にキスをしていた。


僕が買った新しいソフトを目当てに遊びに来た留三郎はほとんど僕の相手をすることなく、ゲームに夢中になってそして唐突に「泊まる」と告げた。
時計の長い針と短い針が1時を過ぎたところで、ずっとゲームばかりしていた留三郎は急に眠くなったらしい。
本当は泊まるつもりはなかった、けどもう眠くて、今から自転車に乗って帰ると絶対に事故るから、お前俺が怪我するとすげぇ怒るだろ?だからさ、伊作、泊めて。
眠たげな眼を擦りながらそう言った留三郎の分の着替えを出すと留三郎は「伊作、ありがとうな」と眠そうな顔で告げて着替え始めた。
男同士だから、と留三郎なら言うだろうけど、狭い部屋の中で2人きりだとどうも目のやり場に困った。
蛍光灯の光が留三郎の背中を照らして、手を伸ばしたりするたびに動く背中の筋肉の動きに思わず息をのむ。
触れて見たいと思った。その肌に触れて、血が通っていることを確かめて、そして。
目の前の留三郎の肌に舌を這わせる妄想を、無意識でしていた。
舐めて、歯を立てて、その時留三郎の表情がどんな風になるのかを見てみたいと思った。

「なぁ、歯ブラシ借りていい?」

ふあ、と大きな口を開けながら留三郎は僕を振り返って尋ねた。
あぁ、留三郎のまだあるからそれ使いなよと脳内の妄想を悟られないようにと笑顔を張り付ける。
留三郎は歯磨きを終えて帰ってくると勝手に人のベッドへと潜り込んでさっさと寝てしまった。
留三郎の携帯がチカチカ光ったのが見えたけれど本人が寝ているからどうしようもない。
僕はゲームの電源を落としてから部屋の電気を消した。
セミダブルのベッドといえども、高校男子2人が寝るには狭かった。
留三郎へと肌を近づけないとベッドから足が飛び出してしまう。
ちらりと留三郎の方を見たけれど留三郎はそんなこと気にしていないというようにすーすーと寝息を立てていた。
他人のベッドでこんな風に寝息を立てる留三郎に僕が遠慮することなんてない、そう思い至って僕はその狭いベッドへと体を捻じ込んだ。

春にしては暑い夜だった。
月がバターの色をしていてとても大きく、そして気温がとても高く、風のない夜だった。
触れる左側の体が暑くて、寝付けない。
そういえば留三郎が泊まるときはいつも寝不足だっけと思い出した。
そして随分と長い間誤魔化してきた寝不足の原因に思い至ってしまう。


あぁ、きっと今日がこんなに暑くなければ。


そんなことをちらりと思った。
うーんと唸りながら寝がえりを打った留三郎は、僕の理性を試すためかこちらへと顔を向ける。
閉じた薄い瞼にそっと指を伸ばすと指先が熱を伝えて、僕はその指先をぺろりと舐めた。
少し塩っぽい味がしたのは、留三郎が汗をかいているからなのかそれとも僕の指が汗をかいているからか。
そんなことを考えながら僕は留三郎へと顔を近づけて、薄く開いて呼吸を繰り返しているその唇に口付けた。

触れるだけのキスは甘いわけもなくて、ただ肉の柔らかさと人間の熱と、そしてそれだけでは説明することのできない興奮を伝える。
静かな部屋の中で自分の心臓の音がまるで別の生き物のように思えた。

唇をそっと離して顔を遠ざけると僕の下で留三郎が瞼を開いていた。
カーテンの隙間から洩れてくる光が差し込んで、光が映りこんだその瞳は夜だと夜だというのにとてもよく見える。
驚いたけれど留三郎は何かを言うわけでも、瞬きをするわけでもなくただ目を見開いているだけで、もしかしたらこれは長い瞬きなのかもしれない。
もう一度触れるときっと起こしてしまうだろうか。
もう一度唇を重ねていいのかどうかを思案していると留三郎の瞼がゆっくりと閉じる。

あぁ、寝てしまう。
光るその瞳をもう少し見ていたかったのに。
残念な気持ちがして、僕は完全に瞼を閉じてしまった留三郎に背を向けて横になった。


鍵までしっかりしめているはずの窓の外から、誰かが犬に吠えられているのが聞こえた。


朝目が覚めると、留三郎は既に起きていてまたゲームをしていた。
僕がぼんやりその背中とテレビ画面を見ていると留三郎は、おはよ、ゲームしてるぜ、と律儀に報告してくれる。

「うん。おはよ」

僕はベッドに横たえていた体を起こし、テーブルの上に置きっぱなしだったぬるいカフェオレを一口飲んだ。
時計は短い針と長い針が11時を回ったところで「昼ご飯どうする?」と留三郎に尋ねると留三郎は「昼は帰ってから食う」と答えた。
そうか、帰っちゃうのか。
そんなことは声には出さず、視線で送った。
恨めしいのかと言われてもおかしくないくらい、僕は留三郎の背中を見ていた。
留三郎は宣言通りに11時半くらいには帰って行った。


この夜が沈んでも、春休みはまだあと少し残っている。
今夜も泊まりに来てくれてもよかったのに。
留三郎が来ないと分かっているからこそそんなことを思い、一人で横になっていると携帯がピカピカと光りだした。
暗闇の中やたらと自己主張の激しい携帯を手にとって開くと、メールが一通届いている。
差出人は留三郎で「起きてたらそっち泊まりに行きたいけどもう寝た?」とだけ書かれていた。
僕は横になりながら「起きてる。今すぐおいで。」と打って送る。
今頃、留三郎はメールを見てここへ来る準備をしているのだろうか。

昨日、僕がキスしたとき留三郎は起きていた。
そしてキスしたときも朝も何もなかったかのように振る舞っていて、だからこそ僕は失恋したのかと思っていた。
なかったことにして、留三郎は僕を拒絶したのだと、そう思っていた。
けれど、また今夜、留三郎が泊まりに来る。
昨日の夜、僕がキスをした時間に僕の部屋にのこのこ会いに来る。

今夜は留三郎へ幾つキスをしようか。
ふたつにしようか、それとも歳の数?
日にちの数でもいいし、出席番号の数でもいいし、そうだ、骨の数でもいい。
今度はきっと、留三郎が眠る前に言葉を落としてやろう。
耳元に心臓に、肋骨に甘い言葉と唇を落としてあげよう。

窓の外を自転車が過った音が聞えた後に、携帯が震える。
留三郎が僕のメールの後に家を出ているとするなら、今着くことはあり得ない。
けれどメールの送り主は留三郎で、「着いた、鍵あけて」とだけ書かれている。

僕にメールをする前に、僕の返事をもらう前にもう家を出ていたのだろうか。
もしかして僕の家の前でメールを打っていたのだろうか。
そんな留三郎を想像したら思わず笑みが零れてしまった。

「伊作ー?」

インターフォンが一度鳴ったあとに留三郎の声がドアの向こうから聞こえた。
玄関の鍵を開けて留三郎を招き入れる為に僕は腰を上げる。

ガラス窓の向こう側でまだ夜が足を止めて漂っていた。






(2010/04/06)