穏やかに降りそそぐ雨と日々
もう正午過ぎだというのに太陽の光が厚い雲に遮断されている為、どこか薄暗い。重たく垂れこんでいる雲は何とか耐えてはいるが、今にも雨が降り出しそうな気配だ。
雨が降りだす前の空気は湿っていてとても冷たく、廊下を歩いていた留三郎は肩を竦めた。
手に持っている籠に入っているのは先ほど洗い終わった洗濯物で、出来る限り絞ったのだけれど水を含んだ衣類は重く留三郎は籠を持ち直して廊下を歩く。
6年の長屋は建てられてかなり経つらしく、痛み始めた廊下は歩くたび小さな音を立てる。
用具委員長である留三郎は痛みが激しい箇所を探すように廊下の板を見つめながら歩いてい
た。ろ組である小平太と長次の部屋とは組である留三郎と伊作の部屋の間の板がひとつだけ他とは違う音を立てた。
「此処は、伊作が通ると抜けそうだな」
暫くは大丈夫だろうけれど、伊作が通ると抜けたりしそうだと思った留三郎はトントンと軽く足で叩き、音を確認する。
留三郎と同室である伊作は並はずれな程の運の悪さを持っている。
たとえば、4年の綾部喜八郎が掘ったたこ壺に落ちる回数は学園の生徒の中でも突出しており、そんな伊作に掛かれば、まだまだ大丈夫だと思える床板も簡単に抜けてしまいそうだ。
「後で直すか」
つま先でトントンと叩き、その場所を覚えた留三郎は自室の障子を開けた。
障子を開けた瞬間、部屋の中から色んな薬草が混ざった、一言では表せられない匂いが目の前へと広がる。
部屋の中ではまだ寝巻姿の伊作が火に掛けた鍋の前でぶつぶつ独り言を呟きながら何色とも取れない不気味な色をした汁を菜箸でかき混ぜている。部屋の中は独特な臭いが充満していて、それは一言でいえば、臭い。
「伊作!」
洗濯物が入っている籠を床に置き、目の前で呑気に鍋を掻き混ぜている伊作の頭を留三郎は軽く、いや結構強く叩いた。
「痛っ!!!何だ、留三郎か、何するんだよぉ〜」
目に涙を浮かべながら頭を擦っている伊作に「俺が洗濯物を部屋に干してるって分かってて煎じてんのかよ!」と言いながらその頭をもう一度強く叩く。
「あー…そういや朝から何かしてたね」
そう言いながら伊作はようやく部屋を見渡す。
共同で使っている部屋はそんなに広いわけではなく、留三郎も伊作も私物が多い為に部屋は割と手狭であり、その部屋の中には縦横無尽に紐が張り巡らされていて多くの洗濯物が干されていた。
「あ、僕のも洗ってくれたの?ありがとう」
先ほど留三郎が床に置いた籠を覗きこんだ伊作は嬉しそうな声を出した。
「着るものないと思ってたら留三郎が洗ってくれたんだねー」
「…もうさ、お前いい加減にしろよー」
「まるで奥さんみたいだね」
「はぁ?!」
伊作の突拍子もない言葉に留三郎が大きな声を出しても伊作は一向に構わない様子で笑いながら言葉を続ける。
「留三郎はいいお嫁さんになるよ」
「伊作、まじで黙れ。誰がお嫁さんだ」
「僕、留三郎となら結婚してもいいなぁ」
全然こたえる様子がない伊作に、留三郎は溜め息を吐いて腰を下ろす。
部屋の中は薬草が煮詰まった臭いが充満していたけれど、暫く部屋の中にいると鼻が麻痺してくるらしく臭いが薄れて行く気がした。
「あーもうどうすんだよー。まだ渇いてなかったからお前みたいな臭いが染みつくだろうが」
「僕みたいな臭いって何さ」
「薬草。お前薬草の臭い染みついているだろ」
「…そう?」
くんくんと着ている寝巻の臭いを嗅ぐ伊作は「そんな匂いしないよ?」と眉を顰めた。
「するって」
伊作へと顔を近づけて伊作の服の匂いを嗅ぐとやはりどこか薬草の匂いがする。
もはや衣服だけではなく、肌にまでその匂いが染みついている。
「ほら、するって」
ぱっと顔をあげると思いの外伊作の顔が近くて留三郎は息を呑んだ。
睫毛が長い、とそんなことを思っていると目の前で伊作の目が優しく細められる。その表情はとても柔らかく、留三郎の心臓は大きく跳ねた。
「僕の匂いならいいじゃない。お揃いだ」
嬉しそうに笑った伊作に留三郎は眉間に皺を刻んだまま「俺は嫌なんだって」と拗ねたような声を出す。
「つーか、俺が洗濯物干す時は薬は煎じない約束だっただろ?」
「ごめんごめん、ちょっと閃いて作ってみたくなったんだ。ちょっといい感じに出来上がりそうなんだよ」
伊作は嬉しそうにそう言い、煎じている薬草の事を思い出したのかまだ干されていない洗濯物をそのままに鍋の前へと向き直った。
もう伊作の頭の中には作りかけの薬を完成させることしか入ってないのだろう。
隣りに座っている留三郎の眉間に先ほどより深い皺が入ったことにも気付かない。
暫く睨んでいたのだが、伊作の意識は鍋から離れない。
伊作の集中力は同学年の中でも高い方で、きっと薬を作り終わるまでは隣りにいる留三郎を
思い出すこともないだろう。
留三郎は溜め息をひとつ吐いて腰を上げた。
そして伊作の洗濯物が入った籠を拾い上げてそれをきちんと広げながら干していく。
ぐつぐつと薬草が煮える音と伊作が呟く独り言以外に音はなく、障子を開け放して空気を入れ替えてもやはり薬草の臭いは簡単には消えない。
「おーい、伊作」
廊下から伊作を呼ぶ声がして視線を向けると文次郎が顔を覗かせた。
「うわっ、くっせぇ!留三郎、いい加減にしろよ」
呆れたような顔をしながらそう言う文次郎を睨みつけながら、留三郎は「俺じゃなくて伊作に言えよ」と悪態を吐く。
「言ってどうにかなるなら言うさ。そうならないからお前に言うんだろう。つーか、この匂いの中で干したら臭くなるんじゃねーの?」
顔を顰めた文次郎をぎろりと睨みつけながら「二人分をもう一回洗うのめんどくせーんだよ」と諦めたように呟いた。
「伊作の分も洗ってんのか?」
「こいつ溜めるだけで洗わねーんだもん」
「まぁ、お前がいいならいいんだけど。伊作、おい、聞けよ」
伊作に用があるのか、文次郎は伊作の背後へと仁王立ちしてその肩を叩く。
「え、あ、文次郎?何か用かい?」
「食堂のおばちゃんが、昼飯食うなら早く来いってさ」
「あ〜…そういやまだ食べてないっけ」
「おばちゃん早く洗いもの済ませたいって言ってたから行くなら早く行けよ」
「んー」
伊作の意識はまだ鍋から離れない。
こうなった時の伊作は何を言っても聞かないことを同学年である文次郎は知っていた。
「確かに伝えたからな」
「ん」
伊作の生返事に文次郎は肩を落とし、呆れたような視線を落としながら部屋を出て行った。
洗濯物を全部干し終えた留三郎はまだ鍋へと張り付いている伊作の背中へと視線を向ける。
きっと朝飯も食べていないに違いない。もう正午もとっくに回っていて、絶対に空腹に違いないのだ。それなのに伊作は鍋から離れようとはしない。
「…なぁ、伊作」
伊作の背中へと留三郎は声を掛ける。
「まだまだ時間掛かるのか?」
「ん、あとひと煮立ちさせたら終わりだよ」
「じゃあさ、俺が火見ていてやるから飯食ってこいよ。おばちゃんが困るだろう」
「え、見ててくれるの?」
ぱっと目を輝かせて振りむいた伊作に、留三郎は少し戸惑いながら頷く。
すると伊作は床へと倒れ込んで猫のように背を伸ばした。
「すごいお腹すいてたから助かるよー。あー顔も洗いたい」
起き上がり首を慣らしながら伊作は立ち上る。
「ひと煮立ちしたら火を消してくれればいいから」
「冷まさなくていいのか?」
「自然に冷ませばいいから水などにつけなくていいんだ」
「わかった」
「留三郎ありがとう!ほんと君が同室で助かったよ。君以外の人だったらここまでしてくれないだろうから」
自分がどれくらい迷惑を掛けているのか自覚しているようなその言葉に留三郎は怒る気も失せてただ苦笑した。
怒ってもいいのだろうが、伊作にこのように言われると留三郎は弱い。
「分かったからさっさと飯食って、風呂も入って来いよ」
「うん。そうするよ」
にこやかに笑う伊作は軽く手を振って部屋を出て行く。
その背中を静かに留三郎は見送り、もう少しで煮立ちそうな鍋を見つめ直した。ぐつぐつと煮込まれている薬草の色が伊作の睫毛の色と似ていると思っていると、廊下から伊作の叫び声と、何かが割れるような音が聞えて来た。
「留三郎ー!廊下の床板が抜けちゃったよー」
助けを求めるような情けない声に留三郎は鍋をかき混ぜながら思わず笑みを浮かべる。
障子の向こう側に広がる空から小さな雨粒がぽつりぽつり降り出し、庭先で咲いている紫陽花の花弁を濡らしていた。
(2010/05/09)