雨音に溶けて消える


月がない夜は、いつも上手く眠れない。
それは物心つく前からだったし、十五になっても変わらなかった。
月が消える為か、いつもより闇が濃くなるその空気がまるで浸食するように地面を這う音が嫌いで、まるでお前もこの闇に呑まれて消えるんだと言われているみたいで、必死に毛布を被って朝を待つ。
涙を零すとそれは透明なものではない気がして、嫌いなあの闇と同じ色をしていそうで必死に、それこそ唇を痛いほど噛みしめて堪えている。

月がない夜が冬にやってくると決まって状況は悪化する。
からからに乾いた空気が、目も口の中も心の中もからからに渇かせてしまうのだ。
血液まで乾いてしまったら僕はどうなってしまうのだろうかと、そういう事ばかり考えながら必死に瞼を閉じている。
いつもは赤い色をしているはずの血液も、今はきっとあの空の色と同じ色をしているだろう。
僕の中まで浸食するその憎悪や飢えや、そういう類の醜いものはいつだって暴れ出そうとするから困るのだ。

いつも大切に思っているものを壊したくなる衝動。
一番大切に思っている人を殺めてしまいたくなる衝動。
自分が人では無くなるような感覚はいつになってもとても痛いものだった。

こんな夜はいつも静かにやってくる。足音もさせず、静かに静かに背後をついてまわる。
僕の背後にだけいるのか、それとも同じ部屋で過ごす留三郎の背後にもいるのか、尋ねた事はないから、その答えは知らない。
知る勇気も持ち合わせていないからきっとこれから先留三郎に尋ねることはないだろう。
長い夜はやがて明けるけれど、その時僕が人間に戻れるという保証は何ひとつなかった。

「…伊作」

留三郎に呼びかけられ、振り向くと留三郎はもう眠いのか欠伸を噛み殺していた。

「何?」
「お前、まだ寝ねぇの?」
「留三郎はもう寝るの?」

まだひとりにはなりたくなくてそう尋ねると、留三郎はまた欠伸を噛み殺す。

「…眠ぃ」

眼の端を擦りながらそう告げた留三郎に「そうだろうね」と返すと留三郎は「もう寝る」と律儀に報告してくれた。
いつもはそんな事をわざわざ言わないのにどうしたのだろうと思っていると、布団を敷くために立ちあがった留三郎はちらりと僕を見つめる

「…お前はどうする?一緒に寝るか?」
「え?!」

そんな事を留三郎が言うなんて思っていなかったから驚きを隠せずに大きな声を出してしまった。
留三郎は少しだけ唇を尖らせて、「お前今日調子悪いだろ」とだけ呟く。

「お前がいいんなら、いいんだ。俺はもう寝る」

ふんっと鼻を鳴らして留三郎は布団を敷き始めた。
いつもならとっくに寝ている時間なはずなのに眠気を我慢してまで起きていたのは、もしかして僕を心配してくれたからなのだろうか、なんて自惚れてしまいそうになる。
ふあぁと欠伸を繰り返し、目を擦りながら布団を敷く留三郎の背中を抱きしめてしまいたい。

「待ってよ留三郎」

留三郎にそう声を掛けると、留三郎は枕を定位置に置いてから振りかえって僕を見た。

「あの、今日一緒に寝ていいかな?」
「…いいよ」

留三郎は馬鹿にするでもなく、優しくそう言ってくれた。
衝立を端へと押しやり、二つの布団を敷くスペースを作る。
留三郎の布団に僕の布団をくっつけて敷こうとすると、留三郎が「ちょっとは離せよ」と僕の布団を遠ざけた。

「えぇー?この前文次郎に見られたことをまだ気にしているの?」
「…違ぇよ」

留三郎は違うと言ったが、その表情はどうやら図星だったようだ。

「仲いいって言われただけじゃないか」
「絶対部屋に戻って仙蔵と馬鹿にしてる」
「仲がいいのは悪いことではないだろう?」
「そうだけど、でもこれとそれは別だ」
「…まぁ、一緒に寝てくれるだけ嬉しいけど」
「もう寝るぞ」

留三郎はふああと欠伸をして横になった。
布団を被り、僕へと背を向ける。
その背中を眺めてから僕も横になった。

襖の外から射し込む月の光がない為か、目が慣れてもやはりいつもより闇が濃い。
忍者としては任務がしやすい状況だと喜ぶべきだろうに、どうしても心臓がざわついて落ち着いてはくれない。
タソガレドキ軍の雑渡昆奈門に言われた通り、やはり僕は忍者に向いてないのだろう。
自分で向いてないと分かっていても最終学年まで残ろうと思ったのは、同室の留三郎のお蔭だった。

「ねぇ、留三郎」
「…何だよ」
「…有難う」
「…もうさっさと寝ろ。寝むれば全部平気になんだから」

布団の中からそう言ってくれた留三郎の声はとても小さく、くぐもって聞えた。
きっと半分夢の世界にいるのだろう。
そんなに眠いのに現実世界に半分踏みとどまってくれる留三郎の優しさが嬉しい。

「うん…おやすみ」
「おやすみ」

虫の声すら聞こえない真夜中、風の音すらない、まるで水底に沈んでいるような夜。
自分の心臓の音が闇に溶けてしまいそうで指一本すら怖くて動かせない。
留三郎はもう眠りに落ちたようで、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
その音が少しだけ安心をくれ、ようやく詰めた息を吐き、深く呼吸をする事が出来た。
隣りに留三郎が居る。
それだけが今の僕にこの夜を越える勇気をくれる。

そっと布団から腕を出した。
冷たい空気が肌を撫で、体温を少しずつ奪っていくのが分かる。
それと同時に、自分の中の人間らしい部分が萎んでいく気がした。
留三郎の体温に触れたくてそっと留三郎の布団へと触れてみたけれど、僕が触れると留三郎までこの夜に呑まれてしまいそうで触れることは出来なかった。
耳の奥で厭な感情がざわついて、どうしても静まらない。
ずっと堪えていた涙が一筋零れ落ちる。
その涙の色は見ることは出来なかったけれど、きっと黒く染まり始めているんだろう。
僕そう思いながらは瞳を閉じた。




(2010/02/16)

拍手に置いていた伊食満というより、夜に呑まれそうな伊作のお話です。
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