席のソファに身を沈めて、食満は窓の外の風景を眺めていた。もう暫く駅に留まるらしい新幹線の窓から見えるのは灰色の壁と、駅名が書かれた電光掲示板くらいで楽しいものは何一つない。本当ならもう暫く駅で土産を見ていようとも思ったのだが、駅のホームに見送りに来てくれた母親は先日終えたばかりの見合いの話をすぐに持ち出してくるので仕方なしに電車に逃げ込んだのだ。
「…出発まで、まだ五分もあるなぁ」
ぼそりと呟いた食満は先ほど売店で購入した缶ビールのプルタブを開け、口をつける。どうやら、この週末三日間は食満が思っていたよりもずっと精神的にしんどいものだったようだ。喉を通るビールがやけに美味しく感じられ、もう一本買っておくんだったなぁとまたぼんやりと窓の外を見つめた。
ハッピーエンドの向こう側
見合いの為だけにわざわざ片田舎な実家へと戻り、そして先日先方と会った。場所はホテルのカフェでそのメニューの値段に慄いているとお見合い相手である女性が「食満さん、ですか?」と声を掛けてきた。
相手の人はとてもしっかりした印象を与える綺麗な人で、見合いじゃなくても相手は見つかるだろうよ、と思わずにはいられなかったが、口に出すのは憚られ、飲み物の注文を終えると挨拶もそこそこにお見合いらしい質問を幾つか交わす。そして相手の紅茶が来た時に食満は切り出した。
「…あの、この見合いの件なんですが、破談にしてもらえないでしょうか」
食満の突然の言葉に彼女は目を丸くして驚いていた。あまりにも失礼だとは分かっているが、期待を持たせるのもどうかと思い、なるべく早く食満はこの話題を出すつもりでいたのだ。
「…破断、ですか」
「はい。厚かましいお願いだというのは重々承知の上でお頼みしますが、出来ればそちらからお断り、という形にして頂けませんか」
彼女は食満の言葉を聞き、暫く考えてる様子を見せた。高価そうなティカップからは甘い湯気がゆらゆらと昇っている。
「…理由、お聞かせ願えませんか」
彼女の言葉にやはり理由を話さないわけにはいかないか、とため息を吐き、食満は頼んだコーヒーを一口飲んだ。
「…付き合っている人がいるんです」
ようやく開いた口でそう答えると彼女の眉間に皺が寄った。そりゃ、そういう顔になるなぁ。食満は冷静なまま彼女を見つめる。
「恋人らしいひとはいないと窺っていましたが…なら、その人をご両親に会わせては?」
彼女は冷たい声でそう言い、ティカップを持ち上げた。白く細い指が器用にカップを持ち上げるのを見つめたまま食満は彼女がカップを置くのを待っていた。
「家族には紹介できない人でして」
食満のその言葉にますます彼女の眉間に皺が寄った。きっと、何か勘違いをしているのだろう。不倫とかそういう勘違いをされては困る、と食満は慌てて「不倫ではないです」と付け足した。
「…ちゃんとした付き合いで、紹介できない人。まさか、同性の方、ですか?」
どこか期待するような声に聞こえたのは気のせいだろうか。食満はその違和感を感じつつ一度、頷く。すると彼女はくすくすと笑い、先ほどまでとは違う柔らかい笑みを見せた。
「…食満さんも、家族に勝手に見合い話持ち出されたんですねぇ」
しみじみとそう呟く彼女の声が先ほどより随分親しげに聞こえる。それも気の所為だろうかと思いつつコーヒーを飲んでいるとわざとそのタイミングを見計らったのか、彼女が「私も同性の方とお付き合いしているので破断を申込みに来たんですよ」と告げた。その言葉に驚き、咽てしまった食満に彼女は笑いながら驚かせたならごめんなさい、とハンカチを差し出した。自分のものを持っているのでと断り、ポケットから取り出したハンカチで口元を拭く。ハンカチは家にあった物を適当に持ってきていて、それが平太のものであったと今気付いた。平太の事を少し思い出し、心は一気に落ち着きを取り戻す。
「互いに、苦労しますねぇ」
彼女はしみじみとそう呟く。初めの頃と態度と印象も変わってしまい、食満は驚いたものの、彼女の気持ちも分かるような気がしていた。誰にも話せず隠している事を理解してくれるだろう人間に会うと心は勝手に気を許すのだ。そしてそれは食満も同じだった。
「…食満さんのお相手の方は?職場の人ですか?」
「いや、同郷の後輩、です」
「…驚いた。私の相手もそうなんですよ」
彼女は本当に驚いたようで、瞬きを繰り返す。
「奇遇、ですね」
「ほんとにそうですね」
二人は暫く黙ってカップを手に取り、そして視線が合うと笑い合った。
「…とても可愛いんです。写真見ますか?驚きますよ」
「俺の恋人、かっこいいんです。写真有りますよ」
二人は互いのパートナーの写真を見せ、そして暫く自慢話した後に我に返り、「これ、見合いの席ですよね」と笑い合った。
「自慢、したくても出来ないですよね」
「…出来ないですね」
互いが互いの気持ちを理解出来た。言葉が出る前の数秒間の沈黙さえ分かり会えるような気すらした。今いる場所がホテルのカフェではなく居酒屋ならもっと良かったのに、とも思い、そして同時にそうでなかったことに安堵した。
普段、誰にも話さないことを話せるという事はとても気持ちがいいものだということを食満は知る。部屋以外では決して開ける事の出来なかったパンドラの箱を開けても受け入れてくれる人がいるのは希望のようにすら思えた。
「ちょっとお聞きしたい事あるんですが、そちらは…その、固定ですか?」
彼女の突然の質問の意味を暫く考えていた食満は意味が分かると分かりやすく顔を赤らめた。そして「き、聞いてどうするんですか」と戸惑う。
「…当てて見せましょうか?」
くすくす笑う彼女に食満は「いや、いいです」と答え、コーヒーを再度口にしてから「そういえば、今の人とは固定、ですね」と言いにくそうに答えた。
「あぁ、やっぱり、食満さんがネコでしょう?私はタチだからなんとなく、分かって」
彼女はそう言ってもう冷めた紅茶を啜った。
「どうして今の人だと固定なんですか?なにか、理由でも?」
そう問われて初めて食満はその事について考えた。いや、本当は前々から薄っすら分かっていたのだが、考える事から逃げていたのだ。
「…不安、だからですかね。ここだけの話、気を抜いたら逃げられそうで。今回の見合いの話した後も別れましょうって言われたし…」
食満は数日前に別れを切り出した平太の事を思い出す。感情をあまり表に出してこない平太の別れ話はいつだって提案だった。別れた方がいいと思うんです、そんな風に平太はいつだって逃げようとする。
「…たまには代わってあげるのもいいかも知れませんよ。片方が不安に思っていればもう片方だって不安です。たまには、食満さんが安心を与えてもいいのでは?」
彼女の言葉を黙って聞いていると「あ、すみません。勝手に口を出してしまって…でも、あまりにも私たちに似ていたもので」とすまなさそうに眉を寄せた。
「いえ、確かにそうだなと思っていました。やっぱり時々は逆になりたいって思う時、あるんですか?」
「そうですね、時々はって思うんですけど。私は言えないので。カッコつけたがりなんです」
「分かります。やっぱり年上だっていう事を意識して、かっこつけてばっかりですよ」
食満は先日優しく平太を宥めた時のことを思い出す。別れを切り出されたあの時、本当はもっと感情のまま叫びたくも思ったが、平太より年上であるという事は常に付いて回った。小さい頃、よく一人で泣いている平太を慰めていた所為もある。いつも自分が年上だから、とかっこつけてしまうのだ。本当は泣きたい時でさえ、理解ある振りをしてしまう。
二人はその後も飲み物を二回注文し、窓から見える空が暗くなる前に腰を上げる。料金は折半し、見合いの件はなかったことにすると確認してからホテルの前で別れた。話が出来る奇特な存在ではあったが、連絡先を交換する事はなかった。それをしてしまうと、また変わってしまうということを二人は分かっていたのだ。
結局、見合いが破談になったことで帰りの新幹線に乗るまで母親に小言を何度も言われたが、新幹線に逃げ込めばこっちのものだった。食満は平太にと買った土産が袋に入っている事を確認してもう一度窓の外に視線を向ける。ようやく動き出した車内は人が増えて騒がしくなり、窓の外は赤い夕焼けが流れていた。
(2012/12/04)
平太まで出そうと思ったら、ちょっと長くなったのでこっちで切ります。