「人生の中で一番幸せだった瞬間ってある?」
何気ないその一言に上手く返事が出来ず、平太は黙り込んでしまった。楽しそうに目を細めた伏木蔵が「え、あるの?」と聞いてきたから咄嗟に首を横に振り、素気ない声で「ない」と返す。伏木蔵はまだにやにやと口元を緩めていたけれどそれ以上平太に何か聞いて来ることはなかった。
人生で一番幸せだった瞬間。あれが幸せだったのかと問われたらよく分からないが、死んでもいいと思った瞬間は確かにあった。そして、平太は今もあの瞬間に死ぬべきだったと強く思っている。
ハッピーエンドの向こう側
マンションの六階。平太はエレベーターが開くとそのドアから一歩足を踏み出した。さっきまでの浮遊感が残っていて、どこか夢心地になる。けれどそれは今日だけに限らず、このマンションに帰る時はいつだってそうだった。
「ただいま」
鍵をあけてドアを開くと平太は部屋の中に平太は声を掛ける。すると奥から「おかえりー」と声が返ってきた。声の主はどうやら忙しい様で、いつもならすぐに出迎えてくれるのに姿はない。部屋の奥から「へいたーちょっと来てくれよ」と平太を呼んだ。
「・・・どうしたんですか?」
リビングにはスーツケースが開かれていて、衣類が散乱していた。ソファの上もスーツやコートなどが置かれていて座る場所もない。
「・・・明日からの連休、実家に帰るんだよ」
平太に微笑みかけながらそう答えたのは平太より五つ年上の恋人だ。彼は面倒くさそうに髪を掻きながら「片付かなくて」と肩を竦めた。
平太の恋人は五つ年上の、同性だ。隣人には兄弟、と偽っていて恋人でいられるのはこのマンションの一室の中だけだった。
「・・・帰るって突然ですね。それに帰るのにスーツ持っていくんですか?」
平太は鞄をテーブルの上に置き、溢れている衣類へと目をやる。彼が迷っている服はどれもスーツで実家に帰るのなら不必要に思えたのだ。すると彼が気まずそうに表情を歪ませた。
「・・・嘘は吐きなくないからちゃんと話すけど、俺さ、今週末見合いするんだよ。だからスーツ必要なんだ」
彼のその言葉を冷静に聞いている自分自身が平太はちょっとおかしかった。恋人がお見合いをすると言っているのに冷静でいられるのはこんな日が来ると予想していたからだ。だからこそ驚かず、冷静にそういう時が来てしまったのだと受け止められる。平太は小さく深呼吸をし、気まずそうにしている恋人へと視線を向けた。
「・・・母さんが断れなかったらしくて。形だけだから心配するなよ。あ、何なら平太も一緒に行くか?」
その言葉に平太は首を横に振る。そしてそれを見た彼は「だよなぁ」と呟いた。
「でもさぁ、平太の故郷でもあるだろ?」
「そうですけど、僕は貴方と違って帰る家はもうないですから」
「俺の家泊まってもいいんだぜ?」
「それは、さすがに、無理です」
垂れがちな瞳を優しく細め、平太は困ったように笑った。
「・・・だよなぁ。平太はそういう奴だもんなぁ。やっぱりひとりで行くしかないか」
「帰るの久しぶりでしょう?ゆっくり休んできてください」
平太はネクタイを緩めながら「鞄、置いてきます」と言葉を残し、自室へと向かった。
リビングを出た平太は先ほどの笑みとは一転、あまりに真剣な顔をしていた。悲しそうに眉を寄せ、そしてため息を吐く。スーツを脱ぐその一連の動作を平太は悲しそうな表情のまま続けた。
家が近所で、小さい頃よく遊んでくれた人。
それが今の平太の恋人だ。五つ年上の彼は平太にとっては手の届かない一番星みたいな人で、幾ら想っても叶わないと思っていた。実際、平太より年上の彼は平太より早く大人になり、町を出て行ったし、小学校を卒業してからは話す事もなかった。
そんな彼と再会したのは平太が大人になり、同じように町を出たばかりの時だった。右も左もまだ分からない土地で知っている人に会えたのは心強かったし、そしてその人が憧れの人だという事も嬉しい事だった。彼もまた平太を懐かしんでくれ、よく平太を色んな場所へと連れ出してくれた。顔を合わせ、言葉を交わす。圧倒的だと思っていた年齢差も大人になれば大したこともなく、平太が大学を卒業して就職した頃には以前の憧れとは違う気持ちを平太は彼に持っていた。
叶わないものばかり抱えてしまう自分を何度愚かだと言い聞かせただろうか。何度も捨てようとしたけれど捨てきれず、自分の誤算に平太は随分と振り回された。けれど最大の誤算は、彼も同じように平太を好いてくれていたことだった。
奇跡的に気持ちが通じ、傍に居られることになった。それは本当に奇跡的で、平太はあの時程の興奮を未だかつて知らない。
とても大切な人。
幸せになってほしい人。
だからこそ平太にはその時から終わりが見えていた。自分がこの人を幸せにしてあげられるなんて思えなかったのだ。だからいつか終わると分かっていた。けれど一緒にいる時間はとても捨てられず、せめて思い出を、と一年間隣で過ごした。春の桜も、梅雨が紫陽花を濡らすのも、夏の眩しすぎる青も、秋の燃えるような赤も、一面白く染める雪も。全てを記憶に焼きつけていると、彼の隣で過ごす二回目の春が巡って来ていた。
平太が思っていたよりもずっと平太の心は貪欲だった。立ち去ろうと思っていたのにもう少しだけ、と感情が理性を抑え込み、結局二度目の季節も隣で過ごした。そして気が付けば、三度目の冬が巡ってきている。
「もう、潮時だなぁ」
平太は瞼を閉じ、そう呟く。平太は二十五歳となり、彼はもう三十歳となった。周りから「結婚は?」と言われる事も増えたのだろう。そういうことを彼が一切話さなくても社会に出ればそういう事を周りに言われるのだと平太は知っている。それでも傍にいたのは、誤魔化していたからだ。誤魔化してでも傍に居たかったから。けれどもう誤魔化せない。賽は投げられてしまった。
「平太?」
中々戻って来ない平太が心配だったのか、彼が平太を呼ぶ。
「今、行きます」
部屋着に着替えた平太は彼の待つリビングへと急いだ。
リビングはすっかり片付いていた。考え続けた結果、どうでもよくなってしまったのだろう。持っていかない服はカゴへと片付けられ、スーツケースは完全に閉まっている。
「平太」
「なんですか?」
「変な事、考えてるだろう」
その言葉に平太は苦笑する。形のいい眉を寄せ、笑ってみたがどうやら上手く笑えてなかったらしい。彼は少し心配そうな目で平太を見ていた。
「・・・終わりに、しましょうか」
提案のような平太の言葉に彼はやっぱり、というように目を瞑る。そして静かに深呼吸をしていた。
「終わりにしましょう。僕とじゃ先なんてないですよ」
平太のその言葉に彼は「嫌だね」と返す。
「誰と居たって先なんか、未来なんか見えねぇよ」
「でも、僕と居たら困るのは留にいじゃないですか」
平太は唇を噛み締め、恋人である食満の顔を見つめる。『留にい』と呼ばれた彼は悔しそうに顔を歪め、「そうやって呼べば頷いて貰えると思ってんなら大間違いだぞ」と言う。
「今まではなんだって聞いてやったけど、今回ばかりは駄目だ。別れない。見合いはするけどそれは俺の意志じゃない。だから別れる必要なんてない」
食満は俯いてしまった平太の隣に腰を下ろし、その細い肩を抱き寄せて宥める。昔アイスクリームを落として泣いてしまった平太に自分のものを差しだして宥めてくれた時のように、彼は何度も何度も優しく「大丈夫だから」と繰り返した。
「わかりました」
平太のその言葉に食満はほっとしたようで、安堵の笑みを浮かべる。目じりに皺が出来、その皺に平太は月日を見た。彼はもう、膝小僧を擦りむいて涙をこらえるような子供ではない。そして平太も同じだ。
「安心したら腹減ったな!あ、もうこんな時間かよ」
時計を見れば短針はいつの間にか八を差している。平太が帰って来てから一時間以上経っていた。
「今日は出前にするか!」
食満の言葉に平太は頷く。そして「寿司にしましょう」と笑った。
「おー寿司いいなぁ。たまには奮発するか!」
食満は携帯を片手に登録されている寿司屋を探しだし、「特上二人前」と注文する。そんな食満の背中を平太は一瞬足りとも見逃したくないと、じっと見つめていた。
*:*:*
「じゃあ行ってくる!土産楽しみにしてろよ」
スーツケースを引きずり、食満は玄関先で平太にそう告げた。
「土産なんていいですよ。楽しんで来て下さい」
平太もにっこりと微笑み、食満を見送る。食満は心配性で「鍵は忘れるなよ」やら「誰か怪しい人が来たら連絡しろ」だとか平太を子供扱いし、それらに平太が「わかりました」と返すとようやく出かけていった。
食満が去り、ドアが閉まるとシンと一気に静まり返る。平太はその静寂の中、深呼吸をした。
リビングには二人で選んだソファに、食満が拘ったテレビ。テーブルは平太が選び、カーテンは二人で決めた。恋人らしく居れるのは部屋の中だけだったから、居心地に拘り、家具に妥協はしなかった。二人が心地よく暮らす為に全てを選び、そして休日はほとんど部屋から出なかった。思い出は全部と言っていいほどこの部屋に詰まっている。全部が詰まっている。
ソファに腰を下ろした平太は「引っ越し、三日で出来るかなぁ」と涙を零しながら愛しいものがつまった部屋を見つめていた。
(2012/09/25)
ピクシブにあげていたお話。
連載になる予定です。