白 夜 の 果 て に








隙間風が入り込まないようにきっちりと戸を閉めると背後から音が聞こえた。振り返った朔は「起こしちゃったか?」と声を潜めたまま尋ねる。敷きっぱなしの布団から顔を覗かせているのは平太だ。頬を赤くしたまま「いえ、」と答える声は掠れていて、すぐに咳に変わった。

「…仕事の方も休んでしまって」

今朝、平太は高熱が出て、座っている事すら辛い癖に「出来る仕事もあると思うので」と体を起こそうとした。そんな平太を朔は有無を言わさずに布団に寝かしつけた。昨夜から少し体調が悪そうだったのだが、朝目が覚めてみると少しどころじゃなかったのだ。
そんな体調でも仕事に出ようとするのが平太らしいとおかみさんも旦那も言っていたが、勿論許可される筈もなく平太は熱が下がるまで休むことになった。

「…おかみさんが少しは良くなってるって言ってたけど」

平太の前髪を上げ、少し汗ばんでいる額へ同じように前髪を上げた自分の額をくっつけるとやはり少し熱かった。

「少しは下がったみたいだな」
「…はい」

こほこほと咳を繰り返し、平太は熱の為に潤んだ瞳で朔を見上げる。いつも見下ろされてばかりいるからそれが新鮮で不謹慎だけど朔は何だか嬉しかった。

「お粥持ってきたよ」
「すみません」

平太は咳と咳の間にそう言った。体を起こそうとした平太の背中を支えると布越しに平太の熱を感じる。やはり平熱よりはずっと高く、そして汗ばんでいる。  
平太が体を起こすと朔はまだ熱を持っている器から蓮華で少量の粥を掬う。ふーふーと冷ましてから平太の口元へと運ぶと平太が「自分で食べれますよ」と照れたように笑った。確かに重症という程の熱はない。それは知っている。だからこうしてるのは朔がしたいからなのだ。

「…ほら、あーん」

平太の言葉が聞こえなかったようにもう一度平太の唇へと蓮華を近付けると平太はおずおずと唇を開いた。そして朔が持つ蓮華へと唇を寄せる。恥ずかしそうにしているのが平太らしいな、なんて朔は思う。

「どう?」
「…美味しいです」
「ほんと?塩の味が強かったりしないか?」
「いえ、そんな事ないです。美味しいですよ」
「そうか?良かった」

そう言ってほっとしたようにする朔に平太は気付き、「朔さんが作ってくれたんですか?」と尋ねる。すると朔は照れたように笑って頷いた。

「…お粥は早く治れーって念込めて作るものっておかみさんが言ってて、作らせてもらったんだ」
「じゃあ早く治りますね」

平太がそう言ってくれるもんだから朔は嬉しそうに笑みを浮かべながら「そうだといいな」と返した。

食欲がないと言っていた平太だけれど、朔が作った粥は全部食べてくれた。無理するなと言ってはいたが、残さずに食べてくれたことが嬉しい。
朔は空になった器を片付けて、次は薬だな、と立ち上がる。つい先日までは朔の方が寝込んでていて平太に看病されていた。いや、朔だけじゃなく若旦那と百合、そしておかみさんや奉公人までもが町で流行った風邪に罹って寝込んでいた。旦那は留守にしていたので風邪を引いてなかったのは平太だけで、平太一人で皆を看病してくれたのだ。その時に皆が飲んでいた薬が余っている筈だ。けれど風邪を引いている時に枕元まで薬を持ってきてくれたのは平太なので朔はこの家の何処に薬が仕舞われているのかが分からない。

「薬なら箪笥の中に」
「何段目?」

朔はそう尋ねながら適当に引き出しを開ける。そしてそこに仕舞われている小さな容器に気が付いた。

「三段目ですよ」
「…これは?」

二段目の引き出しから出てきたのは見覚えのない容器だ。その容器には黒い小さな丸薬が五つほど仕舞われている。

「あ、それは違います」

平太の声が幾分大きくなったような気がして朔は振り返る。横になった筈の平太が体を起こしてこちらを見ていた。

「それは、俺が持ってきた薬です。風邪薬はその下の段に入ってますよ」

穏やかな口調がいつもとは違って演技がかかったような気がするのは気のせいか。朔はすぐに黒い丸薬を元の容器に戻し、三段目の引き出しを開ける。三段目からは見覚えのある粉薬の包みが出てきた。

平太が薬を飲んだことを確かめると朔は洗い終わった皿を持って戸を開ける。そして相変わらず布団の上で上半身だけ起こしている平太に「じゃあ、皿返してくるからちゃんと寝てろよ?」と声を掛けると朔は家を出て行った。
寝ると頷いた平太だったが、朔の足音が完全に聞こえなくなるとすぐに布団から抜け出し、二段目の引き出しを開けた。そこには先ほど朔が興味を示した容器が転がっている。それに入っている薬の数を確認し、平太はほっとしたように息を吐いた。そしてその薬を元の場所には戻さず、それを持ったまま布団へと戻ると容器を枕の下へと仕舞い込む。この薬がもし誰かの口に入ってしまったらと思うと気が気じゃなかったのだ。




平太が隠している薬を作ったのは忍術学園で同じ組だった鶴町伏木蔵だ。彼は五年生の頃辺りから新薬を作りだす事に熱中していて、色んな薬を作っていた。彼が作る薬は時折、結構な値で売れるというのを聞いたこともある。
学園を卒業した伏木蔵は忍者にはならず、医者として山沿いの町で暮らしていると噂に聞いた。そして平太が以前住んでいた村と今住む町の間に伏木蔵が住んでいる町があった。なので平太はこの町に向かう時、途中にある伏木蔵の住む町に寄り、手土産を持って伏木蔵の診療所を訪れた。
突然の来訪だったけれど伏木蔵は快く招き入れてくれた。診療所と言ってもそこは薬草臭いだけで患者は居らず、部屋の中は薬学の本や材料が散らばっている。それは学園にいた時の彼の自室ととても似ていた。
茶を出して貰い、手土産の団子を食べながら伏木蔵と平太は皆のその後などの報告をしたり、懐かしい話をしては笑い合う。ほんの少し学園にいた時に戻れたようで平太はその時間をとても楽しめた。人と話すのは久しぶりだと言って笑った伏木蔵は相変わらずだったので平太は少し安堵する。ろ組で一番心配だったのは他の誰でもない伏木蔵だったのだ。

長居するつもりなかった平太が帰ろうとすると、伏木蔵が帰り際に薬を渡して来た。それがあの薬だった。平太がどういう薬なのか尋ねると伏木蔵はにやりと唇だけを器用に歪めて笑った。

「一度くらい平太だって考えた事あるだろう?人の記憶を消せたらなぁってさ。スリルだよね」

伏木蔵によるとそれを目指して作った薬だそうだ。けれどまだ欲しい効果の半分にも満たないらしい。それでも使えると思うからあげると言うのだ。楽しそうに笑う伏木蔵はその後も高い材料使ってるから大事にね、等と言ったが、その費用がどこから出ているのかを平太は尋ねたりしなかった。

「直接記憶を消せる程じゃないけど一時的に意識を錯乱させることが出来るよ。その間に強い暗示とか更に強い記憶を植え付ければ記憶そのものを封じ込められるかも」

最後のは可能性の話だとは言っていたが、伏木蔵の作った薬ならその効能は確かなものだろう。けれど一度試してみなければ大切な任務には使えない。それに目指している町に着くまでに別の仕事がひとつあったので都合も良かったのだ。平太はその仕事で伏木蔵から渡された薬を一度使ってみた。
結論から言えば確かに薬は良く効いた。薬を飲んだ相手は一時錯乱状態になって誰かに殺されるという状況しか理解出来ず、結果的に助けに来た仲間を切り殺してしまった。その後平太は人混みに紛れてその場から離れたが、あの現場を多くの人に見られてしまったあの男は薬の効能が切れたとしても裏切り者として扱われてしまうだろう。これだから伏木蔵の話は半分程しか信用にならない。これで効能が半分にも満たないというのだからどんなものを作ろうとしているのだろうか。

とにもかくにもこの薬は劇薬といっていいものだ。だから誰の口にも入ることないよう細心の中止を払わなければならない。
平太は何度も薬がある事を確認して眠りについた。






平太が寝込んで四日経つ頃にはすっかり熱も引き、咳も止んだ。そして仕事へと復帰した時にはあんなに流行っていた風邪も落ち着きをみせている。平太はまるで浦島太郎になったような気分になった。 どこもかしこも休業だった店が今じゃ元気に開店しているのだから仕方がない。

「あんなに風邪が流行っていたのに」
「平太が寝込んだ頃には落ち着き始めてたんだよ」

どうやら平太は町が落ち着き始めた頃に風邪に罹ってしまったようだ。

「…あの人だかりはなんですか?」

広場の方で人が集まっているのが見え、朔へと尋ねてみると朔は一瞬苦い顔をした。そして言い辛そうに「平太が寝込んでる間にさ、人が殺されたんだ」と口を開く。

「誰が、」

平太の驚いたような声を朔は遮る。

「知らない人だよ。旅人だったのかどうかは知らないけど、宿で死んでたらしい。若い女だったそうだ。それで一昨日犯人が見つかったんだ。四十代の男で、そいつは前から窃盗の罪で追われていたみたいで打首だって。あの広場で昨日から首、晒してるんだよ」

平太の視線が広場の人だかりから外れない事に気付いた朔は「見に行くか?」と聞いてきた。見たくないだろうに、律儀に「まだ見てないなら見た方がいいかもな」と言って先に広場の方へと歩いて行く。

打首は珍しくないが、それを晒すとなれば別問題だ。殺人、窃盗以外の罪もないのに晒されるのは珍しい。大抵首を晒されるのは反逆罪など上の機嫌を損ねた輩くらいだ。

平太の疑問が伝わったのか、隣にいた朔が「今年から厳しくなったんだって」と言った。

「人を殺すと打首、そして首を晒される事になったと旦那が言ってたよ。それにしても首が痛そうだな」

男の首は広場の真ん中にあった。周りをぐるりと塀で囲まれていてそれ以上近づけないようにはなっていたが、それでもしっかりと見る事は出来る距離に男は晒されている。切られた場所からもう血は零れていないが、蠅がたかっている。血の匂いに混じって腐りかけた肉の匂いが漂っていて、朔はすぐに鼻と口を押えた。

立てられている立札には男の名前、年齢、そして罪状が事細かに書かれている。平太がそれに目を通していると朔が平太の腕を掴んだ。

「…もし俺が打首になったとして、名前の方はなんて書かれるんだろうな。朔になるんだと思う?」

朔の顔は笑ってはいたが、声はどちらかといえば暗く、冗談にはならなかった。何処となく辛そうにも見え、このまま此処にいるのは嫌なのだろうと、平太は朔の手を取って人混みを掻き分けた。そして広場の外れまで来るとその手を離す。

「大丈夫ですか?顔色、悪いですよ」
「匂いがきつくてさ、ごめんな」

朔は平太がそれ以上何を聞いても「もう大丈夫だ」の一点張りで、「仕事に行こう」と歩き始める。平太はその頼りない背中を見つめながら少し後ろを歩いた。






朔がどうして落ち込んでいるのか、その理由はおかみさんから聞いた。平太がひとりで店番をしているとおかみさんがやってきて「朔の様子はどう?」と聞いてきたのだ。朝、広場に行った時に落ち込んだ様子だったと報告するとおかみさんは「やっぱり」と少し考え込む様子を見せた。

「何かあったんですか?朔さんは死体を見るのが初めてだからと言っていたんですが、他にも理由があるような気がして」
「昨日ねぇ、あの糞坊主が来たのよ」

おかみさんが糞坊主などと汚い言葉を使うのは珍しく、その名前が指す人はひとりしかいなかった。この界隈で悪名高い土倉の一人息子だ。彼は常々呉服屋の清さんの一人娘であるお菊に目を付けていて、これまでに何度も見合いの話を持ち込んでいた。けれど清によって何度も断られている。そのお菊の父親が朔へと縁談の話を持っていき、しかもそれを朔が断ってしまったのが面白くなかったのだろう。彼は久しぶりに店へと来て、店番をしていた朔へと色々遠回しな嫌味を言って帰ったという。その嫌味に朔が何も返さず、ただじっと聞いていたのでそれがおかみさんは気になっていたらしいのだ。

「記憶がどうのこうのって聞こえては来たんだけどね、折角朔が顔を合わせないように配慮してくれたから出ていけなくてねぇ」
「記憶?」
「朔がね、おかしな事言ってたよ?」

おかみさんの背後からちょこっと顔を出した百合が平太に抱きつきながら「聞きたい?」と小首をかしげる。

「教えてくれると助かるな」
「ふふっ平太だから教えるね」

百合はそう言って嬉しそうに笑うと平太の耳元に顔を持ってきてこっそり教えてくれた。

「…悪い人?」
「そう。もし朔が悪い人だったらどうする?って百合に聞いたの」
「…で、百合ちゃんはなんて答えたの?」
「朔は朔だから意味わかんないって」

百合のその言葉に平太は思わず笑ってしまう。

「どうして笑うの?」
「いや、その通りだなって」

百合はその言葉に満足したようで、胸を張っていた。その可愛らしい様子におかみさんも平太も顔を見合わせて笑い出す。

「あの子は考えすぎるところがあるからねぇ。平太からも何か言ってやってくれないかい?」
「わかりました」

平太が返事をした時、ちょうど客が店へと足を踏み入れ、おかみさんと百合は客に「いらっしゃいませ」とだけ告げるとすぐ奥へと引っ込んでいった。






おかみさんと昼間した会話がずっと頭に残っていて、朔が店に戻ってきて平太へと笑いかけた時、その笑みさも強がりなのではないかと平太は少し疑った。
考えてみれば、平太はここ数日熱を出して寝込んでいたので朔の様子を注意深く見てはいない。

食事も終え、二人家へと帰る道で平太は広場から離れるように帰路を選んだ。平太が気を使ってくれたことが分かったのか、朔は隣でくすくすと笑い、人通りがなくなるとそっと平太の手へ指を絡める。ちらりと視線を向ければ悪戯をした時の若旦那と同じような目で朔が平太を見ていた。
二人の暮らす家は町の外れにある。だから家に着く頃には二人の指はしっかりと絡んでいた。

家に着いて手が離れると平太は満足そうな朔に「見られたらどうするんですか」と困ったような声で告げる。何処から漏れたのか知らないが、お菊との縁談を朔が断った事は知られているのだ。そういう時に自分と仲睦まじい様子を見られてしまったのでは更に朔の周りは五月蠅くなってしまう。

「別にいいじゃん?」

平太が心配しても当の本人である朔はけろりとしている。
風呂も旦那宅の大きい風呂を使わせてもらったので二人はもう寝るだけだ。朔は布団を敷きながら平太の方を見ている。

「…別にって、」
「…平太、今日ずっと何か言いたそうだよな」

朔は布団を敷き終えてその上に腰を下ろして未だ立っている平太を見上げる。

「無いと言えば嘘になりますね」
「じゃあ言ってよ」

じっと見つめられては適当に流す事も出来ず、平太は一つ深呼吸をして、朔の前へと正座した。

「何か、悩み事はないですか?俺で相談に乗れる事があるなら」

平太の深刻そうなその声と言葉を朔は平太の唇へ唇を重ねる事で止めた。

「…そんな事あんまり気にしてねーよ。俺は平太が思っているほど軟でも繊細でもないんだぜ?」

悪戯する子供の様に朔は目を細めて、もう一度平太へと口付る。触れるだけだった口付けが次第に深くなっていき、気が付けば平太は朔の肩を掴んでいた。

「…っふ…ぁっ」

口付けの合間に漏れる吐息と殺しきれない声が二人の熱を上げていくが、不意に平太が唇を離した。そしてその手は牽制するように朔の手を掴んでいる。平太のその行動が不満なのか、朔は不満気に平太を布団の上へと勢いよく押し倒した。

「さ、朔さん」
「…お前しか解決出来ない悩みならあるんだけど」

朔は布団の上に横になった平太の腹の上へと座る体勢で平太の顔を覗き込む。すると朔の長い髪が垂れて平太の顔へと落ちてきて頬をくすぐる。 平太が何も言わないと分かると朔はもう一度口を開いた。

「恋仲になれたのにどうして触っちゃ駄目なんだ?普通好きな相手とならこれより先の事したくなるんじゃないのか?平太は俺としたいって思わないの?」

朔の言葉に平太は気まずそうに視線を逸らす。それが気に食わないのか、朔は平太の頬を両手で掴んでもう一度口付る。平太が逃げるように朔の手を掴んで力ずくで離すと朔は急に手の力を抜いた。

「…俺が女役でもいいから」

その言葉にも平太は返事をしない。そうなると朔は叱られた子供の様に悲しそうに項垂れる。

「記憶ないって言ってた割には、そういう知識は残ってるんですね」

平太の言葉に朔はぽつりと、先ほどと比べると小さすぎる声で返事をした。

「覚えてなかったよ。教えて貰ったんだ。旦那と一緒に大きな町に行った時にそういう店に連れてってもらった事があって。あ、これ、おかみさんには内緒だぞ?旦那がこういう世界もあって、男同士っていう形もあるんだって教えてくれてさ。だから知ってるんだ」

俯いた朔の瞳はじっと平太を見つめる。何を求められているのか分かっていても平太はそれに頷いてはやれなかった。

「俺の事好きって言ってたじゃないか」
「好きですよ」

そう返せはするけどこれより先の行為を平太は今望んでいない。平太は朔と同一人物であり、憧れ続けていた食満の許可なしに先に進むなんてことが出来ないのだ。朔に対しての気持ちは嘘ではないが、だからと言って食満への気持ちを捨てるなんて事は出来ない。

「…じゃあ、どうしてだよ。恋仲になれば普通、自然にそうなるだろ?なのに一ヶ月経っても平太、触ってもくれねぇし、不安になるし、何が悲しくて一緒に暮らしてるのに一人で寝なきゃなんねーんだよ」

最後の声はわずかに聞き取れる程で、朔は言い終わると唇を噛みしめた。朔をこんなに不安にさせていたなんて平太は少しも思っていなかった。平太からしてみれば、朔を、食満を大切にしたかっただけなのにそれが朔を不安にさせるなんて気付けなかったのだ。

「俺は…朔さんの記憶が戻ったら関係を進めた俺を軽蔑するんじゃないかと思って、」
「軽蔑?」
「…朔さんの事は大好きです。けど、それを考えると怖くて、」

平太は不安そうに朔を見つめ、苦笑した。それは朔の目には余裕も自信も度胸さえない自分を自嘲するようなものに映る。

「俺の記憶が戻ったとして、どうして平太を軽蔑するんだよ」

平太は答えず、ただ自分の上に乗っている朔を見つめる。何も言えないのか、何も言いたくないのか。どちらなのかは朔には分からない。

「…平太は俺の事考えてくれてんだな。俺の記憶が戻った時のことまで考えてくれてるんだな」

そこまで告げて、朔は苦しそうに顔を歪める。今にも泣き出しそうな表情に平太は思わず息が止まった。

「…でもさ、いつか記憶戻ったとしてさ、今、ここでお前の事好きだっていう俺はどうなるんだ?俺の今の気持ちはどうなるんだ?殺さなきゃいけないのか?」

言葉の終わりと同時に朔の瞳から涙が零れて落ちる。頬を伝った涙は顎から平太の服の上へと落ちてその部分だけ色を濃くしていく。
自分の気持ちはどうなるんだ、と泣く朔を平太は上手く宥める言葉も術も持っていない。それどころか平太は自分の気持ちが空回りし、挙句に朔をひとりにさせていた事にようやく気付いたのだ。どんなに思いやっても届かないのなら独りよがりで意味なんてない。

「…僕は、いつも情けないですね。今度は貴方を守れるようにって思っているのに。いつもいつも肝心なとこで貴方のようにはなれないんです」

あまりにも自分が不甲斐なくなって平太は右手で自分の顔を隠す。情けなくて、仕方がない。

「…平太?」

平太の様子が気になったのか、朔は平太の手を掴んだ。平太の手には力が入っておらず、すぐに平太の顔が覗く。平太の穏やかな瞳から涙が溢れているのを見て、朔は思わず固まってしまった。

「…朔さん、俺に呆れてませんか?こんなに情けなくって、朔さんがどうして俺を選んでくれるのか分からないです」

はぁ、というため息に朔は顔を少し歪める。そして顔をそっと近づけると平太の唇へと口付けを落とした。

「俺が、平太を選ぶ理由はあっても、選ばない理由はないよ。…平太が優しい奴でそして少し度胸がないっていうのは俺だって知ってたのにな。ひとりで焦って、不安になって平太困らせて。俺こそ、平太に愛想尽かされそうで怖いよ」
「そんな事、有り得ないです」

平太はそう言って朔の頬へと触れ、自分から唇を重ねた。平太から口付けしてくれた事が嬉しかったのか、朔はようやく笑みを漏らして平太に被さるように横になって胸へと顔を寄せる。平太がそっと朔の背中へと腕を回して抱きしめると更に嬉しそうに平太の胸へと額を押し付ける。衣服越しの温もりに、さっきまで感じていた寒ささえすぐに何処かに聞こえていく。

「平太の気持ちは分かった。俺の事嫌いなんじゃなくて、考えてくれてるって分かったから不安になる理由は無くなったし、俺、待つよ。待てるよ」

上目使いで平太を見つめて微笑んだ朔に、平太は初めて欲情を自覚した。けれど今更言える筈もなく、情けなく笑って答えるしかない。こういうところが不甲斐ないのだと分かっていても、大切にしたいと思っているから堪えるという行動しか選べないのだ。

「大好きです」

平太がそっと零したその言葉に朔は「俺も」と返して、背中に回された平太の手を取って握りしめた。
 






(2012/02/17)

あまりにも草食系の平太と、肉食系の食満くんもとい朔、という話。
平太はあんまり欲情とかしなさそうですよね。
相手に押し倒されて、そんまま流れで…とかが異様に多い人なんだろうなと思います。

「食われるかと思いました」っていう台詞が超似合いますよね?