白 夜 の 果 て に








大吉堂の蔵はかなり高いところまで品物の棚が作られている。平太よりも身長が高い大吉が上の空間を最大限使えるようにと特別に誂たものだ。そのおかげで多くの品を収納出来るのだが、平太や大吉の様に背が高くない朔にとってそこから品物を出す事はとても大変なことだった。
朔は遥か頭上にある商品を見上げ、ひとつため息を吐いた。この蔵にも梯子はある。だから梯子を掛けて取ればいいのだが、その梯子がそろそろ寿命なのだ。
ぐらつくようになった不安定な梯子に上り、背伸びをする。それでも触れるか触れないかの商品に更にぐっと手を伸ばそうとした時、横から手が伸びて欲しかった商品を簡単に奪った。驚いて視線を向けるといつの間にか平太がいる。あまりにも夢中で気付かなかったのだ。

「…これですか?」

平太の問いに朔は「あ、うん」と小さく頷く。

「他には?」
「あ、その横の二つ」

平太はそれらを簡単に取り、梯子を降りた。そして朔の方へと手を差し伸べて朔が降りるのを待っている。

「それ、ぐらつきますよね?梯子やっと新調してくれたんで持ってきました」

平太は朔を見上げたまま微笑んだ。朔が梯子を降りると平太は棚から取った商品を朔へと手渡してくれる。旦那は大雑把でたまに商品を粗末に扱う事があった。けれど平太は旦那とは違う。どんな物でもまるで割れ物のように扱う。そしてそれは朔に対してもだ、と朔は思った。

「…平太、帰ってたんだな」
「梯子を持ってきただけです。出来たって知らせが来たんで」
「え、今からまた港に戻るのか?」
「はい。俺と旦那が居なかったら朔さん結構梯子使うでしょう?怪我する前に早目に持ってきたかったんです」

平太はそう言いながら壊れかけた梯子を肩に掛けて朔の方を見た。朔が出ていくのを待っていたのだけれど朔はただ平太を見上げている。

「表にお客さん待たせてるんでは?」
「いや、ただの在庫補充」
「そうなんですか」

平太は勘違いしたのが恥ずかしいのか、はにかんだ。それはいつも通りの平太だった。けれどあの祭の日に平太の認識が変わった朔には今までとはまるで別の様に映る。

「お、俺、店戻るよ。お前も港に戻るんだろう?」
「あ、はい」
「じゃあ、後でな」

慌てたように蔵を出る朔に平太はきょとんとして声を掛ける暇もなかった。
朔は蔵を出るとすぐには店の方には向かわず、物陰に隠れて蔵の中の様子を窺っていた。それに気付かない平太は蔵の戸を閉めるとすぐに壊れた梯子を蔵へと立て掛けて、港の方へと去って行った。本当に梯子だけを取り換えに来た様だ。平太が去って行くのを黙ったまま見送り、朔はため息を吐いた。

平太は変だ、と朔が気付いたのはあの祭の後だった。今までは気が利く奴だとか、優しい奴だとか、そういう風にしか思っていた無かったが、違うのだ。勿論平太は優しいし気が利く人だ。けれど、それが朔相手になると少し変なのだという事に朔はようやく気が付いた。
例えば、先の様に壊れかけている梯子を使う自分の事を心配してわざわざ新しい梯子を運びに来たりするのも少し変だ。それに高い場所にある荷物に手が届かなくて困っていると何処からともなく平太は現れる。そして代わりに荷物を取ってくれたりするのだ。多分、平太は朔が何処にいるのかというのを常に把握しているような気がする。それに気付いてしまった今となっては何もなかったようには振る舞えなかった。
平太はいつも優しい。誰にでも優しい。そう思ってきたけれど自分に対しての平太の優しさは少し度が越えている気がしている。あの祭から二ヶ月経ったこの頃、それに気を取られるようになってしまった。一日に何度か、それは思い過ごしだとか、自意識過剰だと思う事もあるが、同じようにそうではないとも思う。朔の日々は今や平太を中心に回っているような気さえしていた。
ぐるぐると出口のない思考を繰り返しながら店に戻ると客の姿があった。それを朔が認識するよりも早く、顔は無意識に笑顔を浮かべていた。

「在庫取りに出てたんですよ、留守にしていて済みません」

朔は腕に持っていた商品を棚へと置くと客へと向き直った。

「いえ、見ていたんで大丈夫ですよ」

くすくすと可愛らしい笑みを浮かべて佇んでいるのはあんみつ屋の看板娘だ。華やかな美人ではないが、その辺りに咲いている花の様に傍にいる人を和ませるような可憐さを持ち合わせている。そして彼女は気立てが良く、幼さが残るような甘い声を持っていた。

「あの、朔さん」

ちらり、と店内を見回した彼女は朔を呼んだ。伏せられた睫毛の長さに感嘆の息を漏らした時、彼女は「平太さんは?」と尋ねてきた。

「最近、店にいませんよね。もしかして何処か別の店の方に移られたんでしょうか?」

頬を桃色に染めて、不安そうに見上げてきた彼女に朔はさっきまでうるさかった頭が急に静かになるのを感じた。急に、シンと静まり返った頭の中ではまるで金縛りになったように何も考えられない。いや、多分考えたくないのだ。それにもかかわらず顔は笑顔のままで、そして口は勝手に喋りだしていた。

「今、立て続けに船が着いてて平太は積荷下ろす作業に出てるんですよ。港に行けば会える筈です」

朔の言葉に彼女はますます頬の赤みを濃くして胸の前で小さく手を横に振った。

「え、あ、別に、その、会いたいというわけじゃ、ただ、姿が見えなかったので、もしかしたらって思って、その」

まるで食べ頃の林檎の様に顔を赤くした彼女は「あ、これください」とたまたま手に持っていただけの品を買い、店を出ようとする。

「…あの、私が平太さんの事を聞いたって事、平太さんには」
「言いません」

朔のその言葉に彼女は安堵したような、それでいて納得がいかないような顔をした。そして足早に去って行く。
誰もいなくなった店内には彼女がつけている香の匂いだけが残り、それが朔は何だか不快だった。





あんみつ屋の看板娘と言えばこの辺りで知らない人はいない。団子屋のあの誠二郎でさえ落とせなかったという高嶺の花だ。そんな子が、平太を好きなのか。
さっきまで浮かれていた心が今は奈落の底にまで落下してしまったようで最悪の気分だ。朔は苦い顔をしては椅子へと腰を下ろす。
あんな子から好意を持たれて嫌だと思う男はいないだろう。朔だってさっきまでは「やっぱり噂通り可愛いな」と思ってた。平太が嫌がる筈もないし、あんな子に慕われたら想いを返してやりたくなるのが多分、普通だ。
さっきまで自分がどうして浮かれていたのか、それがもう朔には分からなかった。外から流れこんでくる冷たい空気に真っ先に心が凍えたようだ。店の外から差してくる太陽の白い光が眩しくて、煩わしくて仕方がなかった。

年上の男と年下の可憐な少女。その二択を迫られて誰が自分を選ぶんだろうか。あまつさえ、自分は本当の名前も知らない。どこの馬の骨とも分からない奴が並んでいる事すらおこがましいだろう。
外からの光が眩しすぎて、朔はまるで自分が暗い所にいるような錯覚に陥る。何だか、すごく、疲れたような、眠いようなそんな気がする。多分頭が考える事を拒絶しているのだ。朔はそれに薄々気づきながらも、考えようとはしなかった。ただ、光を受けて埃がきらきらとしながら漂うのをぼんやりと眺めていた。

「朔さん?」

はっと気が付いた時、目の前には平太がいた。逆行で表情は見えないが、心配しているような、そんな声色だ。

「どうしたんですか?」
「ちょっとぼーっとしていた」
「朔さんがぼんやりするなんて、珍しいですね」

くす、と少し笑われたような気がした。そしてそれに無性に苛立った。それが何故かは分からないが、無性に腹が立って、平太を睨みつけていた。

「別に、いいじゃないか」
「いや、悪いとは言ってませんよ」

平太のいう事は尤もだ。平太は悪くない。悪いのは自分の虫の居所だと朔は知ってる。謝らなきゃと頭では分かっていて、でもそれを実行するには思ったより時間がかかった。謝ろうと視線をもう一度上げた時、平太が持っている菓子が目に入る。すると口は謝罪の言葉ではなく、「それ、」とだけ呟いた。

「あ、これですか?先ほど港の方で頂いたものです。何でも新しい商品らしくて。朔さんこの菓子好きでしたよね?後で一緒に食べましょう」
「それって、あんみつ屋の看板娘から?」

朔のその言葉に平太は心底驚いたように「え、どうして知ってるんですか?」と答えた。
平太のその言葉が聞こえているけど、聞きたくない。朔は今すぐここから逃げ出したくて仕方がなかった。

「あ、俺はいいから若旦那とか百合に分けたら?あと、ちょっと蔵行ってくる。店番代わって」

素気ない声しか出なかったのは仕方がない。そんな余裕がないのだ。朔は振り返る事もなく店の奥へと消えて行き、そして店には平太だけが残された。

何か気に障る事をしたのか。平太は考えたけれど、それを邪魔するように客が訪れる。

「いらっしゃいませ」

手に持っていた菓子を机に置き、平太は客を迎え入れて穏やかな笑顔を見せた。


朔の様子がおかしいのは何も今日始まった事ではない。夏の終わり辺りから少し挙動不審だったり、悩んでいる様子を見せるようになったのだ。何か悩んでいるのなら、と一度は話を聞いてみようかとも思ったが年下の自分に話してくれるかどうか確証がなかった。抱えきれない問題であれば自分じゃなくても旦那を頼ったりするだろう。そう思ったから平太は何も口出しせず、今日まで朔を見守ってきた。

「…あれは恋煩いだねぇ」

そう言ったのはおかみさんだった。朔の様子がおかしい事に気付いたのは平太だけじゃなかったのだ。

「恋煩い、ですか」
「あの朔があんなになってるんだ。きっと気になる娘っ子でも出来たんだろう。でも困ったねぇ」

おかみさんは本当に困った、というようにため息を吐いては眉を寄せる。それは話を聞いて欲しいという分かりやすい態度だった。
その時、朔は旦那と共に留守にしていた。おやつがあるからと珍しく一緒に休憩を取ったのだが、それはおかみさんがこの機会を逃すまいとしていたからだろう。

「どうしたんですか?」

湯呑傾けて、何気なく尋ねるとおかみさんは待っていました、というように体を前のめりにして平太を見つめた。おかみさんの湯呑は当に空っぽらしく、先ほど喜んでいた茶柱は湯呑に張り付いて乾燥している。

「実はね、」

おかみさんは少し溜めた後に「朔にいいお話がきているのよ」と言った。

「…いい話ですか」
「そうなのよ。私はね、決まっちゃえばいいと思うんだけれど、本人の意思を無視するわけにはいかないじゃない?でもあの子、私達が勧めたら受けると思うのよね」

おかみさんは少しだけ思い悩むようにそう言って平太へと視線を向けた。確かにおかみさんの言う通りで、おかみさんと旦那が縁談を勧めれば朔には受けるしかない。それが分かっているからおかみさんも先に平太へと話したのだと思う。

「朔さんに想い人がいるか、俺が聞けばいいんですか?」

湯呑を置き、じっとおかみさんを見据える平太に、おかみさんは「さすが話を呑み込むのが早いわね」と笑った。

「そのうちアンタにもいい話用意するからね」

おかみさんのその言葉に平太は「一人前になるまでは…」と苦笑する。

「まぁ、確かにアンタには早いねぇ。でも朔はいい頃だと思うんだよ。それにあの子の場合は事情が違う。こういう話を持ってきてくれる人がいるって事を大事にしたいんだよ」

おかみさんの言う事は尤もだ。でもだからこそ平太にはもやもやとしたものだけが残った。

それからというもの、おかみさんから「まだかい?」と何度も急かされるが、平太は未だ聞けずにいた。もしかすると朔は既に想い人と両想いで旦那やおかみさんに言えずにいるだけかもしれない。そうであれば平太が尋ねる事で少なからず背中を押すことにもなる。それならば背中を押すべきだ。頭では分かっているのに平太は中々それが出来なかった。
食満が朔として幸せになるのならそれを祝福したいし、出来ると思っていた。忍者ではなくなった食満が、平凡な幸せを手に入れるのならそれはそれで見守るべきだと思っている。けれど平太は今、どうしても動けない。その理由は知っている。知っているが、平太に取ってそれは取るに足らない事な筈だった。自分の気持ちなど割とどうでもいい部類な筈だった。

客が帰ってほっと一息吐いた時、奥からおかみさんが顔を出してきた。そして平太しかいない事を確認すると声を潜めて平太を呼ぶ。

「で、どうだい?」
「あぁ、実はまだ聞いてないんです」

平太が申し訳なさそうに眉を下げるもんだからおかみさんは強くは言えなかった。最近、朔の様子がおかしいのだから聞き辛いのだろう、と思ってくれたようだ。

「先方を待たせてるから、なるべく早く頼みたいんだけどねぇ」

おかみさんは大袈裟にため息を吐く。それはまるで針みたいで平太を刺した。

「今晩、聞いてみます」

平太の言葉におかみさんの表情はぱっと明るくなった。そして「頼んだよ」と平太の肩を叩いては去って行く。この事の確認の為だけに来たのだろう。あの年頃の女の人は本当に世話を焼くのが好きで好きで、正直困ると平太は思った。

「…明日とかにすればよかったかな」

平太はひとり呟き、戻ってこない朔を思った。






夕食を終え、家へと戻る。いつもはざわめいている筈の町中が、今日はやけに静かな気がした。それは自分の錯覚なのか、と朔は思う。平太と二人きりなのが気まずいと思っているからなのかも知れない。
平太は物静かな男だ。うどん屋の長男と同い年だというのに平太は彼よりも落ち着いていて、ずっと大人びていた。無駄口は叩かず、けれど寡黙すぎる訳ではない。声の大きさもちょうどいいくらいだし、笑ったりもするし、冗談も言う。それでも物静かだと思うのは、彼の存在があまりにも空気のようだからだと朔は思った。空気を意識すると呼吸が上手くいかなくなるように、一度変に意識するとどうすればいいのかが分からなくない。それが、苦しい。

「朔さん、昼間の菓子あるんですけどどうですか?」

家について湯を沸かしていると平太そう言って懐から包みを取り出した。平太の事を尋ねたあのの娘の頬の様に赤い包みの中からカステイラが出てくる。

「新作の芋味らしいですよ。芋の甘み生かしてカステイラの甘みは抑えてるらしいので食べやすい筈ですって言ってました」

にっこりと微笑んで説明する平太を朔は無神経だと思った。あの子が平太の為に用意したものをどうして自分が食べる事が出来るだろうか。惨めになるに決まっている。

「俺はいいよ。平太が貰ったんだろ?」

火にかけられた薬缶を睨みつけながら、自分の今の声はとても醜いなと朔は感じた。醜すぎて聞いていられない。
黙って薬缶を睨みつけていると小さく平太のため息が聞こえてきた。それは自分を非難しているんだろうと朔が苦く思っていると「…実は」と深刻そうな声で呟かれた。
深刻そうなその声に朔は耳を傾ける。すると平太は本当に深刻そうな声で「そんなに好きな菓子ではないんですよね」と告げた。

「朔さんが好きだって言っていたので一応貰ってきたんです。だから食べて貰えると助かったんですが…」

そうやって苦笑されると、朔は責められている気がした。そしてそこで言葉を止める平太の優しさに気付く。子供の様に意地を張った朔に折れるところを教えてくれる。
本当にどちらが年上か分かったもんじゃないな、とさえ思う。

「…じゃあ食べるよ」
「そうですか?助かります」

平太は嬉しそうに笑って、朔の前に包みを置いた。芋の甘い匂いが鼻腔を掠める。新商品というカステイラはとても美味しそうだ。
朔がカステイラを食べていると平太が沸いた湯で茶を淹れてくれる。「ありがとう」、と朔が言うと平太は目を細めてそれに応えた。
家は二人しかいないから静かで、先ほどまで居心地悪く感じた空気がいつものように戻っていく。それにほっとしながらカステイラを食べる。仄かに甘いカステイラはそれはそれは美味だった。

「あの、」

心地よい沈黙を破ったのは平太だった。

「ん?」
「…朔さんって、想い人とかいらっしゃるんですか?」

平太のその言葉に朔は咽た。器官にカステイラが入り咳き込む。そんな朔の背中を平太は擦って、湯呑を手渡す。その茶を飲んでようやく落ち着いた朔は涙目のまま平太をじっと見つめた。

「急に、どうしたんだよ」
「…そうですね、急にすみません」
「いや、別にいいんだけど、本当にどうしたんだよ」

朔の声には少し期待が見えた。平太が自分の事を気にしていて、ようやく動き出したかのように思えたのだ。もしかしたら、想いを告げてくれるのかとさえ思っていた。だからこそ平太を見る目には熱が籠る。
けれど期待したからって実ってくれる確率は低い。

「あー…やっぱり隠し事はいけないですよね」

平太はそう困ったようにして笑った後、「おかみさんに頼まれたんです」と告げた。

「え?」

平太の言葉に朔は思わず間抜けな声を出してしまった。
平太は空になった朔の湯呑に茶を淹れながら、縁談が持ち上がっているという事、そして朔の事だから旦那やおかみさんが話を持ちかければ受けてしまうだろうという事。だから朔の本音を平太が探るよう頼まれたことを話した。
旦那とおかみさんが自分の事を考えてくれている事、そして平太もまた自分の事を考えてくれている。それを分かっている筈なのに、朔は裏切られたと思ってしまう気持ちを抑えられなかった。だから「なんだよ、それ」という言葉が口を突いて出た。

「朔さんの気持ちが分からなければ話を進められないからと言われて」
「…どうして断ってくれなかったんだよ」
「…どうしてもって頼まれてしまいまして。相手は清さんとこのお菊さんらしいですよ。朔さんにはお似合いな相手かと」

そのまま続けようとする平太の言葉を、朔は平太の名を呼ぶ事で遮った。

「俺は!」

顔を歪ませて朔は言う。

「俺はおかみさんが探してくる相手が誰だって見合いするつもりはねぇ」
「…朔さんの気持ちを無視して進めないようにっておかみさんは俺へ探りを入れさせたんです。だから朔さんの気持ちを無視するつもりは誰にもないですよ」

朔がこんなに取り乱して怒っている理由が平太には良く分からなかった。誰も朔の気持ちを無視しようとはしていない。むしろ尊重しようと思うからこそ平太へと頼んで来たのだ。それをどうして朔はこうも怒るのだろうか。

「…平太はほんとに誰にでも優しいんだな」

朔のその声はどこか悲しげに聞こえた。それの理由を平太は知らない。平太が自分を好きだと都合よく勘違いしていたんだ、と泣きそうになる朔に気付けない。

「朔、さん?」

朔の様子がおかしいことに気付いた平太が朔へと近づこうとすると朔は平太に背を向けて立ち上がる。そして「断ってくる」とだけ告げて家を出て行った。






朔がいなくなった家の中で、平太は呆然としていた。自分は下手踏んだのだろうか、と先ほどのやり取りを思い返す。けれど自分の態度や言葉の何が朔をあそこまで傷つけたのかどれだけ考えても分からない。
そして考えているうちに、もしかしたら、という希望的観測が浮かんだ。けれどそれを平太は振り払う。期待というもので現実を歪めて見てしまうとそれは時に命取りになる。それを平太は良く知っていた。

半刻程で朔は戻ってきた。けれど未だ機嫌は直っていない様で平太から離れた場所へ腰を下ろし、背を向ける。「朔さん」と念の為に名を呼んでも無視される始末だ。朔は頑なだった。
けれど、そんな朔の態度に平太は朔は怒ってないと気付いた。これは怒っている訳じゃない。本当に怒っているのなら出て行ったっきり家に帰ってこない筈だ。それか怒っているという事を平太に感じさせないようにいつもの態度を取るだろう。一年以上一緒に暮らしているから平太は朔の性格を把握している。

朔は怒ってはいない。これはどちらかというと拗ねているのだろう。じゃあ、どうして拗ねているのか。その答えに平太は心当たりがあった。それはさっきまで現実味がないと思っていたものだ。多分、いや、かなりの確率でそうだ。これは平太の希望的観測ではなく、現実の確率だ。
平太がもう一度名前を呼んでも朔は返事をしなかった。だから平太は頑固な背中に「好きです」と一言だけ告げる。
その言葉に、ようやく朔が振り返った。

「やっとこっち向いてくれましたね」

平太がそう微笑むと、朔は「…お前こそやっと言ったな」と言う。

「いや、言うつもりはなかったんですが」

平太は困ったように笑う。憧れの気持ちがいつの間にか形を変えていた事に気付いていたが、それを言葉にする必要も、気持ちが報われる必要も平太は今の今までないと思っていた。ましてや、報われてしまうなんて思ってもみなかった。
朔は膝を付けたまま四つん這いでずるずると平太の方へと近づいてくる。そして平太の背中へと凭れかかった。

「…もう一回言って」

小さく甘えるようなその言葉に平太は無意識で笑みを浮かべていた。背中に感じる熱が愛しい。重みが嬉しい。

「…好きです」

平太は自分の声が自分の心へと沁みこんでいくのを感じた。声に出すと、あぁ、本当に好きだとゆっくりと自覚していく。触れる熱が愛しいと思うくらい、平太は朔へと心を傾けている。そして、それは朔も同じらしい。それは奇跡にすら思えた。

「…勘違いしたのかと思った」

朔はほっとしたような声で言う。そして朔へと向かい直った平太の肩へと額をぐりぐりと押し付けていた。

「勘違いじゃないですよ」
「…だよなぁ。お前隠す気なかっただろ?」
「…隠しているつもりだったんですが」

平太はくすくすと笑う。それが気に障ったのか、朔が顔を上げて「嘘吐け」と平太を睨みつけた。
けれどそれも長く続かない。嬉しそうな笑みを浮かべている平太を見つめていると朔は自分が怒っている事がかなりどうでもいい事なんじゃないかと思えてきたのだ。 だって平太は今朔を好きだと言ってくれたのだからもう怒る必要もない。

「…俺もお前が好きだよ」

朔は観念した、と言うような表情と声で平太に言う。

「最初はさ、何かの勘違いかと思ったけど、でも好きだ」
「…はい」

平太のその声はとても嬉しそうだ。幸せだというような表情すらしている。そんな平太を見ていると朔は昼間店に来たあんみつ屋の娘を思い出した。高値の花だと言われているあの子が平太を選ぶのに、平太は自分を選ぶ。それがとても信じられない。だから「平太も馬鹿だな」と言葉が口から出た。

「何がですか?」

平太は心外だ、というように驚いたような顔をする。

「可愛い女の子なんか沢山寄ってくるだろうに、よりによって年上の、しかも男の俺なんて」
「俺なんて、って言わないでください。悲しくなります」
「でもそうだろ?…もし、もしもだぞ?あんみつ屋の看板娘が平太を好きって言ったら平太だってあの娘選ぶだろう?」
「…選びませんね」
「高値の花だぞ?」
「あの娘なら俺じゃなくてもっと他にいい人がいると思います。それに俺が傍にいたいと思うのは朔さんだけです」

平太はそう告げるとぎゅうと強く朔を抱き締めた。平太の熱い体温が服越しに伝わる。朔と同じように少し速くなっている鼓動も聞こえてきた。そして、朔の目から涙が一粒落ちる。

記憶は戻らず、自分自身を支える術は少なかった。周りの人は皆、朔に優しかったが、それでも埋められないものがあった。気を抜いたら足元から崩れ落ちる。ずっとそんな気がしていて、恐怖で眠れぬ夜も多かった。本当に今、自分が存在しているのか疑う時もあった。
日々は孤独で辛かったが、今ようやく心の拠り所が出来たのだと朔は思った。自分の事を好きだという年下のこの男が、自分がずっと求めていた心の拠り所なんだと思ったのだ。

「…俺も、平太だけだ」

朔の瞳からは涙が零れてはいたが、いつもとは違う、安心したような笑顔をも見せた。そして平太の頬を両手で包むとちゅっと口付る。

「好きだよ」

嬉しそうなその声に、平太は「俺もです」と口付けを返した。
 






(2012/02/09)

ようやく半分、かしら?
平太は自分の感情を殺すことが上手そうです。
自分の感情、寂しいとか痛いとか辛いとかはどうでもいい事に分類される男、平太。