白 夜 の 果 て に
平太がこの町に来てそろそろ一年経つという夏の日。毎年この時期には町で一番大きな祭りが行われる。海の神様へとお供え物をしたり、商売繁盛の神様へと舞を奉納したりと伝統がある演目もあるが、一番の目玉は町の大きな通りで西の商売と東の漁業に分かれて商売繁盛と漁業大漁を掛けて行われる大綱引きだ。
大吉堂の店主である大吉は毎年西側の大将をしていてこの時期になると綱引きの事しか頭に入らなくなる。それに去年とは違い、今年は新しい弟子の平太が増えた。それが大吉にとっては嬉しい事のようでよく平太を捕まえては「祭りまで日がない。鍛えておけよ」と言い、平太に体を鍛えるように指導したりしている。
この祭は三日間にも渡り、その間は文字通りお祭り騒ぎだ。どの店も祭りの間中は特別価格というものを用意していて、普段より客足が増える。大吉堂も例外ではなく、お祭りだというのに平太はほとんど店の中で客の対応に追われていた。店が終わっても翌日の為の準備に追われて、少しも暇な時間はないし、平太は祭に顔を出してさえいない。
人の気配が店に近づいた事に気付き、品出しの手を止めて平太が振り返る。既に閉まっている店先に顔を見せたのは客ではなく朔だった。
「平太、片付け代わるよ」
朔は夏の夜のような紺の生地に白と月の色の流線模様が入った綺麗な服を着ている。普段より濃い色の服は朔をいつもより細身に見せた。朔の凛とした雰囲気とその着物とが良く合うと平太は思っていて、一日に何度も見惚れていた。
「やっぱりその服似合いますね」
「そうか?」
朔は少し照れくさそうに自分の着物を見て、平太を見上げた。
「でも、平太のそれも似合ってる。淡い色も合うんだな」
平太と朔が着ているのは清さんの店の新作だった。この祭の間、清さんの店の新作を着て二人は大吉堂で働いている。客に服を褒められたら清さんの店の新作だと宣伝までしていた。最初はこれで売り上げが伸びるのだろうかと疑っていたが、祭二日目の今日までに結構な人数に服を尋ねられ、そして実際に何着か服が売れているらしい。新作で値が張るものらしいので清さんから直々にお礼を言われ、平太はどう返事をしたもんか少々躊躇った。
「明日の服、家に運んでおいた」
「明日はどんな服なんでしょうね」
「平太のは黒だったぜ。あれは絶対平太にしか似合わないと思う」
朔は楽しそうに笑いながら平太の手から品物を奪い、棚へと並べていく。
「まだ祭見てないんだろう?片付け代わるから楽しんで来いよ。それに、後ろで待ってる奴らがいるからさ」
平太が振り向くと店の入り口からこちらを窺っている二つの影があった。それは浴衣を着せてもらった百合と晴太郎で朔の言葉に照れたように顔を覗かせる。
「平太!平太は祭初めてだろう?俺が案内してやる!」
「あ、わたしもね、案内するのよ!」
小さな二人に両手を奪われ、困ったように朔へと視線を向けると朔は「いってらっしゃい」と手を振った。こうなればもう仕方がない。平太は二人へと視線を戻し、「じゃあ案内して貰ってもいいですか?」と尋ねる。二人は目をきらきらと輝かせて「うん!」と嬉しそうに笑った。
夕焼けの赤に染まったこの町のどこにいても笑い声が聞こえる。町全体が大きな笑い声の渦の中にあるみたいにさえ思った。それほど手放しで楽しい空気が漂っていて、非日常のそれに皆は思い切り浮かれている。
「平太ー飴細工だって!」
「あー鶴がいるよ!」
晴太郎と百合は出店の飴細工に興味があるようで二人して平太の手を引っ張った。飴細工を作っているのは老人で、皺の深い手で器用に形を作っていく。熱くはないだろうかと平太は思ったが、熱くないわけもないのだろうとすぐに思い直す。これが彼の仕事なのだ。
飴細工職人の手の動きに暫く見入っていた平太を子供達が手を引いて呼ぶ。
「一つずつ買ってあげますので選んでください」
平太の言葉に二人は「鶴!」「犬!」と予め決めていたようですぐに叫ぶ。その決断力に平太は少し驚いた。二人と同じ年の頃の平太はと言えば、選べなくて泣き出すような子供だったのだ。
買って貰った飴細工を二人はすぐに口に含んだ。そして既に視線が別のものへと移っている。好奇心旺盛な二人に平太は手を引かれ、大通りを歩いた。
この町にやってきてあと半月で一年が経つ。町の人達のほとんどは平太をもう覚えていてくれて声を掛けて来てくれる人も多い。その度に平太は足を止め、子供達は平太を紹介して胸を張っていた。何で胸を張るのかを平太は知らなかったが、彼らにしてみれば朔といい、平太といい、お父さんの自慢の弟子なのである。
祭りの本会場の広場を一周し、豆菓子とくずきりを買ってやって店に戻ってきた頃には太陽は完全に沈んで辺りはすっかり暗くなっていた。そんな暗い闇の中ぼんやりと辺りを照らす提灯の光がどこか違う世界に迷い込んでしまったかのように感じさせ、平太は時折振り返っては明るい通りを眺めていた。見慣れた町がいつもとは違う様相で佇んでいるのが何処となく夢の中の様に思える。
「朔!」
晴太郎と百合が突然手を離したので慌てて振り向くと店から朔が顔を覗かせていた。
「どうだ、平太をちゃんと案内してくれたか?」
朔の言葉に二人は「勿論!」と頷く。そして「朔にお土産」と飴細工を手渡した。
「平太が選んだんだよ」
「平太、有難うな」
朔は嬉しそうに微笑んで飴細工を見つめている。
「あひるさんだよ」
「あひるさんだな」
「わたしはね、鶴にしたのよ。甘くておいしいの」
「そうか、百合は鶴にしたのかー」
百合を抱きかかえ、朔は店へと戻る。そして振り向き様に「平太、飴持ってて」と手渡してきた。
「朔食べないの?」
「食べるよ。でもその前に若旦那と百合を家に連れて行かなきゃな。もうそろそろ寝る時間だろう?」
確かにいつもならもう布団に入るべき時間だ。それでももっと遊びたいと二人は口を尖らせて駄々を捏ねる。
「早く寝ないと明日の綱引きに寝坊しちゃうぞー」
朔がそう言った瞬間にさっきまで「嫌だ」と喚いていた二人が急に聞き分けが良くなった。それはあまりにも珍しい事で、平太は二人の態度の変わり様に驚いたくらいだった。
二人をおかみさんへと引き渡して、家へと帰る道で平太はふと疑問に思った事を尋ねてみた。
「二人共、今日はすごく聞き分けよかったですね」
祭りは夜も尚続く。何処からか聞こえる指笛の音に、誰かが歌う声が微かに風に乗って聞こえてきた。振り返ると広場の方はまだ灯りが点っていているらしく夜が薄まっている。
平太が振り向いたので隣にいた朔も足を止めて振り向いた。広場が明るいので夜だというのに隣にいる朔の表情がちゃんと見える。細く長い睫毛が影を落としているのさえ確認出来た。
「明日は綱引きだろ?この町の人は明日の綱引きを一年のうちで一番楽しみにしてるんだ。広場にいる人達もそのうち帰って明日に備えるさ」
だから早く帰ろうというように、朔は再び歩きだし、平太もその後に続いた。
明日の準備の為にやらなければならない事も多く、平太がふと気づいた時には町は静まり返っていた。
祭の三日目の朝。祭の中で一番重要な日ということもあり、ほとんどの店は午後からしか開かない。大吉堂も同じであり、平太と朔は普段よりゆっくりと起床した。
「…えっと、今どれくらいだ」
朔が寝ぼけ眼でそう聞いてきたので「あと一時間で集合ですよ」と平太は声を掛けた。あんまりにもゆっくり起きてしまったので二人共遅刻ぎりぎりである。
「え…?えっと、じゃあ、まず、風呂だ!」
一時間もないと知ると朔は目が覚めたようで素早く布団を片付け始めた。そして「別々に入る時間ないから」と平太の手を取って風呂場へと向かう。
今日も他の二日と同じように清さんのところの新作の着物を着る事になっている。おろしたばかりの服なので幾ら宣伝で着るといっても身嗜みには気を遣う。祭りの間の二人が朝起きてまずすることと言えば風呂だった。
「そういえばさ、一年近く一緒に住んでるけど一緒に風呂に入るのは初めてだな」
平太の背後で脱いでいる朔のその言葉に平太は「そうですね」と返す。その声は普段通りだったが、内心平太は動揺していた。昔、学園にいた頃一度だけ一緒に風呂に入った事はあるが、今と昔では大違いだった。主に、平太の方の心境が大きく変わっている。
「平太、先入ってるぞー」
服を全て脱いだらしい朔は平太の肩を叩いて先に風呂場へと入った。お湯を体にかける音が聞こえ、本当に一緒に入るのかと平太はその場にしゃがみ込んだ。
ただ一緒に風呂に入るというだけで、どうしてこんなにも動揺しているのか。その答えを平太自身まだ見つけきれないでいるのだ。
「平太ー」
風呂場から名前を呼ばれ、このままじっとしている訳にもいかないので平太は立ち上がる。そして腰に手拭いを巻いて風呂場の戸を開けた。
「平太、背中流してやる」
既に髪を洗い終わったらしい朔が髪を耳に掛け、平太に手招きをした。誘われるまま朔の前に置かれた椅子に腰かけ、お湯を体へと掛けてもらった。
「目、閉じてろよー」
そう言われたので閉じると頭からざぶんとお湯を掛けられる。目を開くと水に濡れた浴室の壁が見える。漂う湯気に少しだけ視界が悪いのがせめてもの救いのような気がした。
平太が頭を洗っていると宣言通り、朔が平太の背中を洗い出した。腕を動かす度に筋肉が動くのが面白いのか、何度も同じ場所に触れては「おー動く動く」と独り言を言っている。
「平太の背中、こうやって見たら広いな」
「…そうですか?」
旦那やおかみさんに「細い」と言われることが多い平太だからその言葉を言われ慣れてない。
「平太は背が高いもんなーそれに意外にいい体してる。細いけど筋肉ついてるんだな」
確かめるように触れてくる朔の手に意識がいくと何だかもう駄目だった。どうしたらいいか分からないくらい動揺してしまう。顔が赤いのはのぼぜているからではない。
「さ、朔さん」
「お、どうした?」
後ろから手をにゅっと伸ばして平太の肩を掴み、顔を覗き込もうとしてきた朔に平太は「今度は俺が洗います!」と切羽詰った声で告げた。いつも穏やかでいる平太がそんな声を出すのは珍しい。朔は少しだけ状況を察したのか何も言わず、くるりと背を向けて座り直した。
平太が振り返ると長い髪を前へと流している朔の背中が目に入る。お湯で流し、その滑らかな肌へと触れた時、平太は益々自分の顔に熱が上ったような気がした。
「あ、」
平太の指が触れたのは朔の首の下辺りだった。そこには古い傷跡がひとつあったのだ。他の部分より赤みを帯びたそこはぷくりと少しだけ盛り上がっている。
「どうした?」
朔は平太の手が止まったことに気付いて声を掛けたが平太はすぐには返事をしなかった。
「背中に、傷跡がありますね」
「え、ほんとに?」
平太は指先でその傷跡へと何度も触れる。自分でも触れてみようと朔も手を伸ばしたが、中々辛い体制だったのかすぐに諦めて首だけを回して平太へと視線をやる。
「背中は見えないから分からないんだよなー二年前の傷かな」
「いえ、違うと思います。きっと、もっと古い、昔の傷ですね」
「痛くないからそうなんだろうな」
それは平太にしてみれば懐かしいものだった。遠い昔、まだ平太が一年生だった頃に自分を庇った食満が負ってしまった傷。それが朔の体に未だ傷跡として残っている。それは朔が食満と同一人物だという事を平太へと確信させるものだ。そしてその傷跡を見つけた平太は何処かほっとしていた。
今まで朔と食満が同一人物だとは思っていたものの、それに根拠らしい根拠はなかった。声と顔が似ていると言っても平太が知っている食満は今から数年前でまだ少年だった。しかもたった一年しか一緒にはいなかったのだから自分の判断に不安があったのだ。けれど平太は間違っていなかった。この人は憧れていた食満先輩だった。
朔が食満だったことが嬉しいのか、それとも食満が朔だったことが嬉しいのか。今の平太にはそれは分からない。
「平太?」
平太はそっと顔を近づけて、その懐かしい傷跡へと唇で触れた。ぷくりと膨らんだその傷に、いつか胸を痛めて泣いた事を思い出す。あの時の自分は無力だった。無力でこの人に守られる事しか出来なかった。けれど、今は違うと平太は自分自身へと強く言い聞かせる。今ならばこの人を危ない目に合わせることなく、自分の手で守れる。
朔がもう一度名前を呼ぶ前に平太は背中を洗い出した。柔らかな白い肌に傷がつかない様に丁寧にと触れる。朔はそれ以上なにも言わず、ただ平太に好きなようにさせていた。
風呂から上がったのは平太の方が早かった。気が付けば結構な時間が過ぎていたのだ。
先に上がった平太は体を軽く拭き、新しく出した褌を締めると用意されている浴衣へと袖を通した。
黒い浴衣だが、右肩から下へと空へ上る銀色の龍が描かれている。上へとのびる柄は背の高い平太を更に高く見せた。群青色の帯にも白と銀の糸で薄くだが、龍の模様が描かれている。
「似合いすぎるくらいだな」
朔の声に振り返ると朔は女性物の浴衣を着ていた。緋色と枯茶が交互に入った生地に黄金色と茜色の椿が散っていて葉の色として入れられた萌木色がいい変化になっている。帯にも同じように萌木色が数ヵ所に入っていて、華やかだ。
「…今日は女性のものなんですね」
「平太がいるから恋仲のような感じでと言ってたけれど俺の子供っぽくないか?」
「いえ、すごく綺麗ですよ」
鏡を見て髪を結っている姿はとても可憐に見える。長い髪を町で流行っているという結い方で結うと朔は化粧を始めた。平太はそれを手を伸ばせば触れられる距離で腰をおろし、ただ眺める。
「平太、見すぎ」
「あ、すみません。見惚れてました」
平太のその素直な告白に朔は笑いながら小指の先に紅を取る。そして唇へと紅を塗った。化粧が完全に終わった朔は平太の方へと向き直ると可愛いと自覚しているような小悪魔的な笑みを浮かべ、小首を傾げて「どう?」と尋ねる。
けれど平太は朔のその問いに返事をせず、黙ったまま朔へと手を伸ばした。平太の長い指が朔の頬に触れる。冷たいと思った指先は思っていたよりもずっと熱く、朔はどきりとして動揺したように平太を見上げた。平太はそれでも何も言わず、頬に触れたまま親指をそっと唇に乗せて、紅を落とすように親指で拭った。何度か指先で唇を拭い、平太はそっと指先を離す。
「朔さんは綺麗だから紅は薄いくらいでいいですよ」
親指の先に紅を付けたまま微笑む平太を前にして朔は自分の顔に熱が上るのが分かった。思わず浴衣の袖で顔を隠してしまう。どうしてこんなに恥ずかしいのか。それは朔が平太に口付けられると思っていたからだった。そしていつの間にかそのつもりでいた。それだから恥ずかしくて仕方ない。
「朔さん?」
顔を覗き込もうとした平太の肩を朔は平手でパシパシと叩いた。そうでもしないと気が収まらないのだ。それでも何も気付かない平太は叩かれているっていうのにいつものように穏やかな顔と声で「どうしました?」と聞いてくるばかりだ。答えられる筈がないのに、と思うと朔の手に更に力が入る。
「朔さん?」
手首をやんわりと捕まえられ、平太に再度尋ねられた時には朔の気ももう済んでいた。
「何でもないよ」
「そうですか?」
「もう行くぞ」
朔の機嫌がどうして悪いのか、平太は特に深く考える事もしない。ただ先を歩く朔の後ろを小走りで追いかける。
少し先を歩く朔は気が済んだので時折歩みを緩めて平太を待つ。その気遣いに平太は思わず笑みを漏らした。
いつもと同じ穏やかなその笑顔に心臓が高鳴ったような気がして朔は折角緩めた歩みをまた早める。けれど足が長い平太の前に、それは無意味だ。暫くすると息も切らさないで平太が隣に並ぶ。それが悔しくて視線を地面へと落とした朔の前に黒い影法師が二つ並んだ。
背の高い平太の影の隣には女の格好をした自分の影。
その影は何処からどう見ても恋仲の男女にしか見えず、朔はまた顔を赤らめては「腑に落ちない」とひとり呟いた。
(2012/02/03)
ちょっと長くなってしまったのでここで一旦切ります。
そして、朔の紅を指先で拭う平太を絵で見たい…絶対かっこいいって!萌えるって!!と自分で言う(笑)