白 夜 の 果 て に








夏の良く晴れた日、大きな町へと続く道をひとり黙々と歩く青年の姿がある。道を歩く人の中でも頭一つ抜き出るほど背が高く、そして手足はすらりと長い。笠の下には穏やかそうな顔がある。静かな瞳を持つその青年の名は下坂部平太と言った。
平太は忍術学園を数年前に卒業していて、現在とある城に仕えている。忍者として生きている筈の平太が何故若者の格好をして日中に堂々と道を歩いているのかというと、それにはちゃんとした理由があった。
平太は忍にしては真っ当な青年で、そこを評価してくれた城に拾われた。忍びという職業柄、普通であれば少しずつ人間としての何かが狂っていく。それは避けられない事であり、それと共に生きていくのが忍者である。けれど平太にはそういう歪みが未だ見られない。忍者として生きるようになって数年が経ち、その間に酷い内容の任務だってこなしたが、それでも平太は学園にいた頃と変わらなかった。動物や人を大切にし、自然を好む平太のその穏やかで真っ直ぐな人柄を平太の上司は良しとし、そして平太に一つの仕事を託したのである。

平太に命じられた任務はただひとつ。敵国へと入り込む事だった。

考えてみれば、平太は初めから遠方での仕事を命じられていた。城へと直接行った事はなく、仲間の忍者は組頭や直属の上司しか知らない。私の元で働いて欲しいと直接交渉してきた組頭は平太を穴丑と呼ばれる忍者へと育てたかったのである。
穴丑とは桂男の術でも使われる味方も知らない忍者のことであり、町で普通の生活をしている者の事だ。そして一定の土地に長年住み続けて地位や信用を獲得する者の事を穴丑と呼ぶ。平太は求められている役割に相応しくなるようこれから時間を掛けていかなければならないのだ。
平太がこれからなるべき穴丑は敵国に忍び込み、普通の生活をするというのが基本である。その際、忍術学園に途中編入してきた斉藤タカ丸の祖父のように髪結い師など、商売を始める人が多い。というのは、商売とは人が集まりやすく、そして同じように情報も集まりやすいのだ。それ故穴丑というのは何らかの商売をしている者が多いのである。

当面の生活をどうするのかは全て平太に任せられていて、必要な分の金銭の援助は受けている。平太は例に倣って商売を始めようと思っていた。けれど、まだ青年になったばかりの平太にすぐ始められる商売などない。こういう職業は人脈がとても重要であり、それがないに等しい平太に今すぐどうにか出来るものではないのだ。両親が店を持っていた平太はそれをよく知っていた。だからこそ、大した荷物は持たず、とある町を目指している。
商売をしている人達は人の繋がりととても大切にする。そして大抵の仕事などは時間を掛けて広がっていった人脈から得ている場合が多い。そしてそんな彼らだからこそ人の伝手無しに飛び込んでくる人に弱かったりするのだ。
平太の父はそういう人で、平太が十三歳の時に「一から商売を教えてくれ」と突然頭を下げた見ず知らずの若者を雇い、今では店をひとつ任せている。そしてこれから平太が向かう先の人も平太の父と同じような、いや、それ以上の人だった。
平太は敵国に入ることになってから目星をつけた町の情報を調べ上げていて、そしてある店に目を付けたのである。
しんべヱの父と同じように貿易業を営んでいるその人はとても豪快な人物だと有名であり、この国で商売を営んでいる人であれば知らない人はいなかった。彼は多くの町に店を持っており、それらの店を任されているのは彼の元で商売のいろはを一から教わった弟子達である。
彼が住むのは城下町のひとつ隣にある商業が栄えている港町だ。その町に今平太は向かっていて、その人の元で数年働こうと考えているのである。





目指していた町に着いたのは太陽が西に傾き始めた頃だった。平太は店に寄る前に少し町を回ろうと大きな通りを人の流れに乗って歩き始める。
商業が栄えているというだけあって通りには多くの店が並んでいる。そして町を歩いていると時々潮の香りが海から流れてきた。開放的で、そして明るいこの町は確かに商売に向いていると平太は思った。

町中を歩いていると客がやたらと溢れている店を見つけた。店先にはまだ若い娘らが店の中を覗いてはしゃいでいる。その店が目的の店であることを確認すると平太は斜め向かいにある団子屋へと入った。
目当ての店が見える席を選び、平太は腰を下ろす。そして団子を頼むと店の様子を観察し始めた。
どの店でもそうだが、忙しい時間帯に厄介事を持ち込まれたくはない。だからこそ平太はあの店に向かう頃合いを見計らっているのだ。
店で団子を一人前頼み、そして茶を啜って暫くすると向かいの店に溢れていた若い娘たちの波が一斉に引いた。店を開けていると客がやたら来る時間と急に暇になる時間がある事を平太は知っている。そして今まさに頃合いだと思い、店主に勘定を頼むと急いで団子屋を出た。

「すみません」

目的の店へと入り、奥へと声を掛けると「はいはい」という女性の声が聞こえた。奥から出てきたのはしっかりとしていそうな三十代後半くらいの年齢の女性で、容姿には気を使っているらしく綺麗な召し物を着ていた。すぐ傍にまだ八つになるかならないかくらいの女の子がくっついていて「お母さん」と彼女の袖を引っ張っている。

「いらっしゃい」

にっこりと笑いかけたその女の人へ平太は唐突に「ここで働かせてください」と頭を下げた。
あまりにも突然の事だったので彼女は暫く呆然と平太を見つめ、ぱちくりと瞬きをしている。

「えぇ?いやぁ、突然そんな事を言われても、ねぇ」

傍らにいる子供へとそう話しかけながら女性は困ったように平太を見つめていたが、それでも平太は「お願いします。商売を一から教えて欲しいのです」と頭を下げ続けた。

「お客さん、ちょっと、困りますよ。顔上げてくださいな」

そう声を掛けても頑なに頭を下げる平太に店のおかみさんらしきその人は「困ったねぇ」と呟き、そしてその声が聞こえていたのか、奥から「母さん?」と男の子が顔を覗かせた。

「あ、晴太郎、ちょうど良かった。父さんか朔を呼んできてくれないか?」
「わかった」

晴太郎と呼ばれた子供はパタパタと走り去っていく。それを見送ったおかみさんは平太の方へと顔を向け、「私では判断に困るからねぇ、少し待っといてくれよ」と言って笑った。

「…有難うございます」

追い返されても文句は言えないのに、おかみさんはこの店の持ち主である旦那に合わせてくれるというのだ。感謝しない筈はなかった。

「しかし本当に突然で驚いたよ。まだ随分と若そうだけれど、幾つなんだい?」

おかみさんは娘を抱き上げて平太へそう尋ねた。

「…今年で十八になります」

平太は顔をあげ、はにかみながらそう答えた。平太の端正な顔立ちはそれだけで見目を引く。育ちが良さそうな言葉使いや物腰の柔らかそうな穏やかな声と瞳。おかみさんはたった数回言葉を交わしただけで平太を旦那に合わせてもいいだろうと判断したのである。

「年の割には落ち着いているねぇ」
「そうでしょうか?」
「私はいいと思うよ」

おかみさんはにっこりと笑みを浮かべ、ぐずり始めた娘をあやすように体を揺らす。会話はそれ以上は続かず、平太は店の中にある商品達をぐるりと見回した。
店内にある商品は様々である。この店は店の主人の船から降ろされた商品なら大抵の物が並ぶので着物があれば刀もあるし、珍しい骨董品も遠く離れた南蛮の品も並んでいる。そしてこの店から主人が持つ多くの店へと品が流れていく。着物なら呉服屋、南蛮の物ならそれを扱う店、それぞれ相応しい店へと流れる前にこの店に全ての商品が並ぶのである。だからこそこの店の客層は幅広い。

「おかみさん、呼びましたか?」

廊下を歩く足音に振り返った時、奥から覗いた顔に平太は息が止まった。
奥から出てきたのは店の主人ではなく、まだ若い青年である。結われた黒い髪は長く、背中あたりまで伸びている。そして平太と同じように長めの前髪が少しだけ目元を隠していた。

「あぁ、朔。今ねぇ、働きたいという子が来てねぇ、この子なんだけど。商売を習いたいと言うんだよ」

朔と呼ばれた長い髪の青年は平太へちらりと視線を向けると「いい男じゃないか」と笑みを浮かべた。

「俺より若いなぁ」
「十八って言っていたから朔よりは若いだろうよ」

朔と呼ばれるその人はつり目の瞳を優しく細めて平太を見つめる。

「俺は朔って言うんだ」

片手を差し出され、平太も慌てて手を差し出した。ぎゅうと強く握られ「よろしく」と微笑まれる。その笑顔を目に焼き付けるように平太は黙って彼の顔を見つめていた。

朔と名乗ったその人から平太は目が逸らせない。そして懐かしさの余り言葉も出てこなかった。何故なら、彼は平太が憧れていた先輩である食満留三郎と瓜二つだったのだ。顔はもちろんの事、声も記憶にある食満のものにそっくりで平太は目の前にいるのが食満以外有り得ないと思った。けれど彼は目の前にいるのがかつての後輩の平太だという事に全く気付いてないようだった。

「で、名はなんと言うんだ?」

彼にそう問われた時、平太は少し躊躇った後に「平太です」と答えた。これから厄介になったとしても本名を名乗るつもりはこれっぽっちもなく、偽名だって用意していた。けれど、今目の前にいるこの人に平太は自分の名を呼んで欲しいと思ってしまったのだ。

「下坂部平太です」
「平太か。いい名だな」

名乗っても彼は表情一つ変えない。もしや自分と同じような任務に就いているのだろうか。平太がそう考えていると彼はおかみさんへ顔を向け、「俺はいいと思うけど旦那次第だな」と言った。

「あの人は?」
「すぐ来るよ、あ、ほら」

彼が振り返った先から大柄な男の人が歩いてきた。日に焼けて筋骨隆々なその体は店の主人というよりは船乗りと言った方が正しい気さえするほどだ。
この店の主人である男は平太を見つけ、じっと見た後に「どうした?」とおかみさんへと尋ねた。

「商売の勉強がしたいという人が来てねぇ」
「ほう、君か?」
「はい」

平太は姿勢を正し、真直ぐに店の主人である男を見つめた。色んな人を見てきた人間は小手先や言葉では簡単に騙されない。それを知っているから平太は正直すぎるほど真直ぐに男を見つめた。

「いい目をしてるな。名は?」
「下坂部平太と言います」
「年は?」
「今年で十八になりました」
「そうか」

男は大きく頷くと「こんなところで立ち話もなんだから上がりなさい」と奥へと引っ込んでしまった。

店に残された平太がちらりとおかみさんや朔と呼ばれている食満に瓜二つの青年を見やると彼らは顔を見合わせて笑みを浮かべていた。

「大抵の人間はここで追い返されるんだ。けど旦那は君を気に入ったようだよ。良かったな、平太」

彼はまるで自分の事のように嬉しそうにしている。そんな彼におかみさんが「朔、ちょっと案内してやってくれないか」と頼み、彼は「平太、着いてきな」と店を出た。
裏から回れ、という事らしく、家の裏に回ると大きな玄関があった。そしてその戸をかつて先輩だった食満に良く似た人は躊躇いなく開けると奥へと上がっていく。

「平太、こっちだ」

時々足を止めて振り返る彼は平太がちゃんと着いてきている事を確かめ、そして長い廊下を横切り、ある一室へと平太を案内した。そこは忍術学園にあった学園長の部屋とよく似ていて、茶室のようだった。壁には水墨画が掛けられていて、そして花も生けられている。障子の向こうから日が入り込み、室内は明るい。

「ほう、君は朔より背が高いな」

畳間で先に腰を下ろしていた主人は並んでいる平太と朔と呼ぶ人を見比べてそう言った。確かに平太は隣にいる食満であろう人より頭一つ分背が高い。平太が知っているのは数年前の食満だけだったので、まさか自分が彼を抜いてるなんて想像だってした事はなかった。
あの頃は平太は首が痛くなるほど見上げなければ食満の顔が見えなかったというのに、今は顔を見るために見下ろすようになっている。
ずっと食満の背は自分より高いと思い込んでいた平太はその事実に今も尚、驚いているのだ。

「年は十八だって言ってたな。朔よりは若いのか」

主人のその問いには平太ではなく、隣で立っている彼が答える。

「多分若いと思いますよ。俺はさすがに十八ではないだろうし」
「背が高いのはうちの店では重宝するな」
「ですね。ほら、平太、座りな」

朔と呼ばれているその人は平太を座らせると「茶、持ってきます」と一礼して部屋を離れた。


平太は荷物を傍らに置き、出された座布団の上に正座した。目の前にはこの店の主人である人が堂々と座っている。体が鍛えられている為かとても四十代には見えないが、調べ上げた情報によるとこの男は四十を過ぎている。そして彼の人脈とそして商売の才覚は人並み外れていた。

「商売を習いたいと言ったそうだが」
「はい」

平太は姿勢を正してそう返事をした。

「私の両親も商売をしています」

平太のその言葉に主人は興味を持ったようで「ほう、」と言い、続きを待っている。平太は一呼吸置くともう一度唇を開いた。

「両親の店は兄が継ぐので私は手伝いをしていたのですが、両親のように一から自分の手で始めたいと思い、家を出ました。どこかで一から学び直そうと考えて色んな町へ行き、そこでこの店の話を聞いたのです」
「それは何処でかね」
「…ここから北へ行ったところにある三川という町で土倉の方が商売を学びたいならこの店へ行けと」
「三川の土倉…杉戸さんか」

三川という町はこの町から北へ二週間歩いた先にある遠い町だが、主人はやはりその人を知っているらしく指先で顎に触れながら平太の話を聞いている。

「はい。その方は連絡をしておこうかと言ってくださいましたが、直接自分からお願いしたいと思ってお断りしました」
「お前さんは十八にしてはしっかりしているし、度胸があるな。確かに人伝手であれば断りにくいが、こうやって直接来て貰った方が私は信用する」

主人がそう言ったところで襖が開き、盆に湯呑二つを乗せた朔と呼ばれている青年が戻ってきた。

「朔、喜べ。お前に後輩が出来たぞ」

主人は彼へと笑みを向け、そして「平太、彼は朔と言ってな。お前の兄弟子になる人だ」と紹介した。

「よろしくな。平太」

彼は盆を畳の上に置くともう一度片手を差し出した。彼と握手を交わしながら平太はどうして彼が「朔」と呼ばれているのか、その理由を考えていた。彼もまた、自分のような任務に就いてるのではあろうが、それでも彼の名はあまりにも珍しくて忍びであれば選ばないものなのだ。忍者として先輩である筈の食満は一体どういうつもりでその名を名乗っているのだろうか。平太はどれだけ考えてもその理由が分からない。

「どうした?俺の顔に何かついてるか?」

あまりにもじっと見つめられているので彼は苦笑しながら肩を竦める。失礼な事をしてしまったとようやく気が付いた平太は慌てて首を振り、そして「朔って名前、とても珍しいなと思って…すみません」と頭を下げた。

「あー…珍しいも何も本名ではないし」

彼はあっけらかんとそう言い、主人の方へと視線を向けて意味深に笑う。
そんなあっさり偽名だってことを認めてばらしても任務に差し支えないのだろうかと平太が内心心配をしていると、旦那が「朔という名は私がつけたんだよ」と思ってもみなかった事を告げた。

「二年前の二月の朔日に北から戻る時にこいつを山の中で拾ったんだよ。酷い大怪我をしていてな、既に虫の息だった。放っておいたら死んだろうよ。まぁ、私はこういう性質だから放っておけなくてな、家に連れて帰ったんだよ」

旦那は「懐かしいなぁ」と楽しげに笑っている。

「旦那は俺を拾ってくれた上に、世話までしてくれたんだ。怪我は半年もすれば良くなったんだけど記憶が無くてな。自分の名前も生まれも何も覚えてないんだ。でも名前がないと不便だろう?そこで旦那が俺に名を付けてくれたんだ。二月の朔日に拾ったから朔。安直だろう?」

そう言って彼は笑う。旦那も笑いながら「名は安直でいいんだ。うちの息子は晴れた日に生まれたから晴太郎だし、娘も庭の百合が綺麗に咲いた日に生まれたから百合だ。名前よりどう育つかが大事なんだ」と自分の持論を平太へと聞かせる。
けれど平太は彼らと一緒に笑う事は出来なかった。朔と呼ばれているこの人が全ての記憶を失くしているという事実にただただ呆然とするしかなかった。

「全部の記憶が本当にないんですか?」

平太の心配そうな声に朔は頷いた。

「あんな大怪我を負ってどうして山に倒れてたのか、それすら分からないんだ。旦那の伝手を使っても生まれも分からなくて、でもそんな俺でもこの人は雇ってくれているんだ。平太はほんと人を見る目があるよ。この人の元で勉強すれば間違いはない。きっといい商売人になれるさ」

朔はそう言って平太の肩を叩く。
「下坂部平太」という名を聞いても彼は全く動じず、表情すら変えなかった。けれどそれは優秀な忍びとして別人を装う為の演技ではなく、彼がその名をもう覚えていないからなのだ。
自分が忍者だという事が露呈しないことを安心するべきなのか、それとも憧れの人に忘れられてしまった事を哀しむべきなのか。平太は自分が今、何を思えばいいのかが良く分からなかった。ぐるぐると混ざり合った感情は複雑で、どれか一つを選べないでいる。

「俺さ、後輩が出来るのは初めてだから嬉しいんだ。よろしくな、平太」

嬉しそうに笑いかけてくるその人はどっからどう見ても大好きだった食満先輩なのに、平太は彼の名を呼べない。いつか何処かで会えたら色んな話がしたいと思っていたその人の名を、平太はもう呼べないのだ。懐かしい話も、いつか聞いてみたいと思っていた事も、憧れていたという事実を告げることも、何一つ出来ない。

あぁ、現実はいつも残酷だ。

平太は心の中でそう呟き、そして心情とは裏腹に笑顔を浮かべた。

「こちらこそ、よろしくお願いします。朔さん」

彼へと頭を下げながら、戦場で再会しなかっただけ良かったのだろうかと平太はひとり思った。






(2011/11/30)

ベタな記憶喪失ネタなんです。