白 夜 の 果 て に








「これ終わったら休憩だからがんばれよー」

夏の青すぎる空を見上げていたらそんな声が飛んできた。太陽はぎらぎらとまるですべてを焼け尽くす勢いで燃えていて、熱い。普段からあまり外に出ることのない平太は久しぶりに直視した太陽のまぶしさにくらくらしていた。

「食満先輩!平太が気分悪そうです〜」

隣で作業をせず、なめくじの壺を覗き込んでいた喜三太が平太を見るなり目を丸くして少し離れたところにいる食満の元へと駆けていく。喜三太は大袈裟だよ、と止める筈が体が上手く動かなくて平太は立っているのがやっとだった。

「平太!大丈夫か?」

大きな影と共に降ってきたその声に顔を上げると世界が真っ暗になってしまった。倒れ込んだ体は食満が支えてくれたらしく、痛みは一切なかった。そして抱え上げられたかと思うとすぐに食満は走り出す。

「伊作!平太が!平太が倒れた!」

廊下を全速力で走り抜け、食満は保健室へと駆けこんだ。

「どうしたの?」
「外で作業してたら平太が倒れたんだ。診てやってくれ!」

食満は肩でぜいぜい息をしながらしっかりと抱え込んでいる平太を伊作に言われた通り布団の上へと下ろした。そしてすぐに伊作が診断を始める。それを食満は側で心配そうに見つめていた。

「日射病だね。軽いものだからゆっくりしていればすぐ良くなるよ」

保険委員委員長の善法寺伊作が言う通り、確かに具合は既に少し良くなっていた。もう世界は真っ暗じゃなかったし、心配そうに見つめる食満の顔も他の保険委員の顔もしっかり見える。

「平太、辛いか?」
「平気です」

心配そうなその顔に笑顔でそう返すと、食満はほっと表情を綻ばせた。食満先輩には笑顔が似合うからずっと笑ってほしいと平太は思っているけど、中々上手くはいかない。一年生が多い用具委員では後輩である一年生達が先輩達を困らせてしまう場面が多いのである。

「食満先輩〜!平太は大丈夫ですか?」

ふにゃっと気の抜けたようなその声に視線を向けると保健室の入り口で同じ用具委員の一年である喜三太としんべヱが三年生の作兵衛の手に引かれてやってきていた。

「先輩すぐ行っちゃうんだもん、僕たちすっごく心配したんですよ〜」
「そうですよー平太のこと僕たちだって心配なんですからー」
「お前たちも驚かせちゃったな。平太はゆっくり休めば良くなるんだとさ。だから今日は平太は休ませてやろうな」
「はーい!」
「はーい!」

学年で一、二を争う程に個性豊かなこの二人は揃いも揃って甘えん坊だ。そして多分、自分よりも手がかかる。平太はそれをちゃんと知っていた。そして彼ら二人が優しい事もちゃんと知っている。二人は平太の為に花を摘んできてくれていたのだ。

「平太、ちゃんとゆっくり治すんだよ?ナメさんたちの応援いる?」
「平太はご飯をもっと一杯食べたらいいよ。僕がご飯持ってきてあげようか?」

二人の申し出を平太は丁重に断って、大事を取って夜まで保健室で休むことになった。

「じゃあな。夕方また顔を見に来るから」

そう言って去っていった食満の右手は喜三太が、左手はしんべヱが繋いでいた。いつもの事なのに、何故かこの時は胸が痛くって痛くって平太は誰にも見付からない様に頭まで布団を被った。

「平太?息苦しくならないかい?」
「大丈夫です」

ぐすぐすと鼻を啜る音が聞こえてしまわないだろうか。平太はそれだけを心配して、布団の中で丸くなっていた。



*:*:*



用具委員は六年生が一人に三年生が一人、そして一年生が三人と下級生が多い。そして一年生の喜三太としんべヱは平太から見てもとても手がかかる生徒だった。だから必然的に平太はしっかりしなければと思うようになり、実際二人に比べると随分としっかりしていた。食満の両手を二人が当たり前のように奪っても平太は平気だ、という顔をする。けれど本当の本当は平気じゃなかった。一番最初の時みたいに平太だって手を繋いで欲しかったのだ。けれどそれを言ってしまうと大好きな食満の迷惑になるんじゃないか。それが怖くて平太はずっと我慢をしていた。

学園は夏になると長期の休みがある。平太は入学した時には夏休みを迎えるまで学園にいる自信は無かったが、無事に学園で夏休みを迎えることが出来た。そして夏休み一日目にたくさんの土産話を持って家に帰る為、学園を後にした。

夏休みの間は祖父と共に寝起きをして、家の裏にある小さな畑の世話もしたし、店の手伝いも出来る範囲でさせて貰った。そして夏休みに出された宿題も何とか一人で終わらせることが出来た。
実家で過ごす時間はあまりにもあっという間に過ぎて、夏休みはすぐに終わりに近づいていた。けれど初めて学園に行く時のように平太は行きたくないと泣いたりはしなかった。泣く素振りなんか全く見せず、淡々と荷造りをしていく。そんな平太の成長に父も母もそして祖父も頼もしいと感じると共に少しだけ寂しくも思っていたが、平太は家族のそんな気持ちなんて露知らず、「学校始まるからいってきます」と夏の終わりの晴れた朝に家を出てひとり学園へ向かった。

平太の家から学校までは五日も歩けば着く道のりだ。学園の中では家が近い方なので休みはゆっくり過ごすことが出来る。皆には羨ましいと言われるけれど家が遠くて秋休みなどの短い休みでは帰れずに学園に残るらしい喜三太が平太は羨ましかった。平太は秋休みも家族から帰って来いと言われていて帰らなければならない。けれど喜三太は先輩である食満と共に学園に残ると言っていて、それが今から既に羨ましかったのだ。

家を出て四日目、平太は昼過ぎに休憩を取る事にした。途中で買った弁当を開き、汲んできた水と一緒に食べる。風が吹く度に木々がその枝を揺らし、さわさわと音を立てる。じっとしていると小鳥たちがピチチと歌を歌いだす。そういう自然の音が平太はとても好きだった。

「…宿題全部出来たって言ったら食満先輩褒めてくれるかなぁ」

平太は食事を終えて片づけを済ますと仕舞い込んでいた宿題の用紙を取り出して眺めた。宿題は数学や漢字など沢山あったが、その中でも難しいと言われている忍術用の宿題が出来たことが平太は嬉しかった。時間は掛かったがすべての欄を埋めることが出来たのが嬉しくて、平太は時々宿題を出して眺めている。

「あ!」

平太が宿題を眺めていると、突然強い風が吹いた。思わず目を瞑った平太が目を開けるとさっきまで手に握られていた用紙は無く、はっとして辺りを見回すと宿題は木々の枝に引っかかってパタパタと風に靡いていた。

「宿題が!」

平太は呆然と大きな木を見上げた。あんなに一生懸命にやったのに風に飛ばされでもしたら宿題をやって来なかったと見なされてしまう。どうして宿題を取り出してしまったんだろうか。平太はさっきまでの自分の行為を反省し、そして宿題を見上げたまま涙を浮かべた。

「…大きな木の登り方」

それは宿題にもあったものだ。そして平太はかぎ縄をひとつ持っている。夏休みの間に上手く登れるようになろうと委員長の食満から貸し出して貰っていたのだ。

「かぎ縄なら、たくさん練習した」

平太は涙を拭い、かぎ縄を手にしてもう一度木を見上げた。宿題の用紙は細い枝に絡まっていて、中々飛びそうにはない。頑張れば取れるかもしれない。そう思うと少し落ち着いてくる。平太は状況を確認するために辺りを注意深く観察した。
大きな木の下にある地面は大きく尖った石が多かった。石自体が細かく割れているので触れただけで痛い。上から落ちたら大怪我をする。それが分かっても平太はまだ諦めきれず、首を痛いほど上げては宿題を見つめた。そして暫くじっとしていたが、覚悟を決めたのかかぎ縄を指先で振り回した。
練習のようには上手く行かず、太い枝に引っ掛けるだけで一時間近く費やしてしまった。それでも平太は諦めず、やっとかぎ縄が枝に巻きついた。

「これで、登れる」

平太は深呼吸をひとつして縄を強く引いて登り始めた。かぎ縄は夏休みの間に何回も練習したが、それでもやっぱり難しい。体の重心がぐらぐらと移る為か、自分の体重がやけに重く感じるのだ。それでも平太は額に汗を浮かべながら必死に縄の先を目指した。
太い枝に辿り着いた時には辺りはだんだんと夕暮れに近づき始めていた。西日は赤く染まっていき、空も同じように染めていく。本当なら今頃もう学園についているのにと思うと涙がまた浮かんだが、平太はその考えを振り切るかのように首を横に振り、そして視線の先にある宿題を見つめた。
宿題の用紙が絡まっているのは枝の随分と先で、思っていたよりも細い。折れてしまわないだろうか、という不安はあったが、それでも平太は進むしかなかった。
両手両足に力を込めて枝に張り付き、少しずつだが平太は着実に進んでいく。枝の太さがちょうど半分くらいになる辺りまでは順調だった。けれど半分まで進んだ辺りで平太はうっかり下を見てしまったのだ。

「あ…」

地面は平太が思っていたよりもずっとずっと遠く、視界の先に見えた白く尖った石がまるで針地獄かのように見えた。夕日の濃い赤がまるで血のように辺りに落ちている。自分が落下する想像が脳裏を過り、平太は血の気が引いて、体中がカチコチに固まったのが分かった。

(…怖い!)

一度芽生えた恐怖は平太の心の中で増幅し、そして終いには平太の体を完全に凍りつかせてしまった。あともう少しで宿題に届くのに、それでももう指の一本も動かせられない。平太は涙を浮かべながら蝉のようにただじっと枝に張り付くことしか出来なかった。

(…もう、夜になっちゃった)

梟の声や蝙蝠が羽ばたく音が何処からともなく聞こえてくる。そしてその度に平太の二つの瞳は涙を浮かべた。もう四日も歩き続けている平太の体力は随分と落ちている。それでも落ちたら大怪我をしてしまうという緊張感から体は無意識に強張り、辛うじて枝に張り付いていた。

(このまま、死んじゃうのかな)

真っ暗な夜に不安ばかりが大きくなり、平太はそんな事を思った。このまま誰にも見つけてもらえず死んでしまうのだろうか、そう考えると不安でお腹の辺りがきゅうと痛くなり、そして涙は止まらなかった。
元々想像力が豊かな平太ではあるが、それはあくまで後ろ向きな事にばかり発揮する。だから平太は自分が助かる想像が全く出来ないでいる。不安は心を蝕むばかりでなく体力すら奪っていき、手足は既に限界だった。
平太が諦めかけていたその時、ふと声が聞こえた。その優しく凛とした声を平太は知っていた。そしてその声は何度も平太の名を呼んだのだ。

「平太!」

辺りに響くその声の持ち主は平太の良く知っている人物、食満留三郎だった。




初めての長期休みの後は一年生は指定された日までに戻らないことが殆どであり、その一年生達を探すのは教師とそして高学年の生徒達の役割だった。忍術学園ではこういう時、組ではなく委員会で分かれる。そして用具委員で学園に到着していないのは喜三太と平太だけであり、喜三太は一年は組の実技担当の山田先生が迎えに行っているので食満は平太の元にやってきたのだ。

平太の家は学園から近く、ちゃんと家を出ているとすれば大体この辺りまで来ている筈だ。食満は少しの痕跡も逃さないよう、注意深く辺りを確認して歩く。そして道の脇に大きな木が幾つも生えている辺りで足を止めた。大きな木の根本に誰かの荷物らしきものが残っているのが見えたのだ。それを確認しようと駆け寄るとそれは食満の思った通り、平太の荷物だった。

「平太!」

視線を左右へ動かして平太の姿を探している食満の頭上から物音がして、そして闇に紛れていた縄が揺れる。

「上か?」

食満が顔を上げた時、風に吹き消されそうなほど小さな声がした。

「けま、せんぱぁい」
「平太?!」

声の方向へと顔を向けると遥か頭上にある枝にしがみ付いている小さな体がある。

「平太か?!待ってろ、今すぐ行くからな!」

食満はかぎ縄がしっかりかかっている事を確かめ、急いで平太のいる枝へと登った。

「平太、大丈夫か?」

平太のすぐ近くまで歩み寄り、食満は平太へと声を掛けた。

「…すぐ助けてやるからな!」

そう言って平太を保護しようとした食満に平太は首を横に振り、顔を前に向けた。

「先に、あれ、取ってください」

平太の視線の先にはまだ枝に絡まっている宿題の用紙がある。

「…あれ、取ってください」

平太の涙声に食満は小さく頷く。
怖がりの平太がこんな高い枝まで登ったのは宿題を取る為だろうという事に食満はすぐに気付いていた。だからこそ平太が気にしているその宿題を先に取って安心させてあげたかったのだ。

平太の宿題が絡まっている枝は食満の指よりもずっと細い枝であり、そこまで行くのは不可能だった。食満はすぐ上にある枝を見上げ、そして軽々とその枝へと登る。そして下の枝よりは太いその枝を足に挟んで逆さになると平太の宿題が破れてしまわない様に慎重に細い枝から引き抜いた。

「平太、ほら、宿題は無事だぞ!」

食満が平太へと宿題を見せると平太はほっとした。それは心だけでなく体までであり、体の力が一気に抜けて落ちてしまったのだ。

「あ、せんぱ、」

平太がそう言った時にはもう遅く、平太の体は枝を離れ、地面へと落下していた。自分の名前を叫ぶ食満の声が聞こえたが、平太はもう目を閉じていて次に来るだろう衝撃に備えていたから食満の姿は見えなかった。
きっとすごく痛いんだろうと平太は思っていたが、どんなに待っても痛みは襲ってこなかった。それどころか石の冷たさとは違う、温かな温もりを感じてそっと目を開けると頬に触れているものが誰かの髪だという事が分かった。黒く綺麗な髪が平太の頬をさわさわと撫でる。

「…けま、先輩?」

平太は恐る恐る名前を呼んでみたが返事はなく、ただ首筋に吐息がかかっている。そっと体を起こすと自分の下にあるものが地面ではなく食満の体だという事に気付く。

「け、ま、せんぱい」

唇は震え、自分を強く抱き締めるその腕を解き、平太は食満の名前を呼ぶ。恐怖で掌がじんわりと汗ばんでいる。自分が怪我をするという事より、今目の前の現実の方が平太はとても怖かった。

「へ、いた?怪我はないか?」

ようやく目を開けた食満は目を優しく細めて平太を見上げる。そして平太が零す涙を優しく拭った。

「僕は、僕は大丈夫です。それより食満先輩が!」
「俺は平気だ…いてて、」

食満はそんな事を言いながら体をゆっくりと起こし、そして深呼吸を繰り返す。そして体に違和感を覚える箇所はないか確かめ始めた。

「平太、背中見てくれないか?」

ある部分が恐ろしいほど熱を持っていて、そしてその場所には手が届かない。食満は平太に頼むしかなかった。

「石、刺さってたら抜いてくれ」

食満の言う通り、食満の背中には鋭い石が刺さっていて、それを見た平太は顔を青ざめた。石は赤く濡れていて、それを引き抜くなんてこと平太には出来そうにもない。

「…あ、血が」
「やっぱりか。なぁ平太、出来ればでいいんだ。抜いてくれ」

食満の言葉に平太は頷いたものの、体が思ったようには動かない。ゆっくりと時間を掛けて平太は石を掴み、そしてそれを引き抜こうを力を込めた。
指先をぬるりと濡らした赤が月明かりに照らされていて、そしてあまりにも痛そうな傷口からは未だ赤が零れていた。

「…平太、頼みがあるんだ。これを近くの小川で濡らしてきてくれないか」

食満が渡したのはまだ新しい布だった。傷口を濡らして汚れを取るのだという事に平太はすぐに気付く。そして一度頷くとすぐ裏に流れている小川へと駆けだした。

月はいつの間にか空の高い場所に浮かんでいた。そして平太の手のひらにべっとりとついた赤を闇に隠すことなく平太へと見せつける。

(僕の、せいだ)

平太は心の中で何度もそれを繰り返す。食満に指示された通り布を濡らすと、赤は川の水に溶けて消えて行く。けれど水とは違う感触は消えない。
食満の元に戻ると食満は傷口を拭いて欲しいと頼み、平太は溢れてくる赤を布で拭った。そしてもうひとつの乾いた布を傷口に当てて包帯を当てる。食満が言う通りに斜めに掛けて渡すとぐるりと胴を巻いて包帯が戻ってくる。それを何度も繰り返すともう赤は見えなくなった。

「平太が怪我していた時の為に持ってきたんだが、自分が使うなんて思わなかった」

そう言って笑う食満を見つめながら平太は唇をぎゅと噛みしめる。悔しくて悲しくて仕方がないのだ。

「平太?どうした?」

食満の優しい言葉に平太はただ首を横に振って俯く。そしてそのまま黙り込んでしまった。そんな平太の手を握って食満は立ち上がった。そして道を外れ、木々の間へと踏み込んでいく。少し先を行くと地面は石ではなく土へと変わり、そして草が生えていた。

「今夜はここで寝て、朝になったら学園に戻ろう」

食満は平太の手を離し、地面へと布を引いた。どうしてこうも沢山のものを持っているのかと平太が思っていると「こういう時の為に持ってきてたんだ」と食満が笑う。

「使わないに越したことはないが、あった方が眠りやすいだろう?」

食満はそれだけ言うと次は木々の枝を拾い集める。火を起こす為だと気付いた平太は「手伝います」と声を掛け、そして辺りに落ちている木の枝を拾い始めた。

「頼むよ」

平太の背中にそう声を掛けて、食満は月を見上げる。時刻は既に遅く、もう暫くすると月も傾くだろう。早めに平太を寝かせようと食満はすぐに作業に戻った。




パチパチと音を立てて火は燃える。ゆらゆら揺れる炎が影を作っては消していく。それを平太はぼんやりと眺めていた。
食満は握り飯を持っていて、それを平太へと食べさせた。残りの二つは朝に一緒に食べようと大事に仕舞い込む。そんな食満の背中に巻かれている包帯を平太はじっと見つめる。

最上級生である六年生の体はやたらと傷が多い。細かい傷となれば無数と言ってもいいほどある。食満も腕や脇腹などに大きな傷跡が残っていた。けれど背中だけには傷がなかったのだ。それを平太は知っていた。綺麗な滑らかな背中を見た時、「傷がないですね」と平太が言うと食満は「背中だけは怪我してねぇんだ」と笑っていた。けれどその背中にも大きな傷が出来てしまった。そしてそれを平太は自分の所為だと思っている。

「平太?」

平太を眠らせようと食満は塞ぎ込んでいる平太を呼んでみたが、平太は返事をしなかった。

「平太、何か言いたいことがあるなら我慢しないで言ってくれないか?」

食満のその言葉に平太はようやく顔を上げた。二つの瞳は水が張っていて今すぐにでも零れ落ちそうなくらいで、平太のまっすぐな瞳に食満は言葉がすぐには出てこなかった。

「僕の、せいです。僕のせいで、食満先輩の、背中、折角傷がなかったのに、僕のせいで」

平太は「ごめんなさい」と言ってぽろぽろと涙を零す。食満は平太がそんなに思い詰めているとは思っていなかったので平太の涙に驚いたが、すぐに優しい笑みを浮かべ、平太の頭を撫でた。

「背中に傷がなかったのはたまたまだ。だからそんな事は気にしなくていいんだ」

食満はそう言ったが、それでも平太は気にしてしまう。傷一つなく、綺麗だった背中を平太は知っているから尚更だった。

「それに平太が怪我する方が俺は嫌だぞ?平太を守れない代わりに傷がなくなるなら、俺はやっぱり怪我してでも平太を守る。この傷は平太を守れた勲章みたいなもんだ。俺は平太が無事だった方がずっとずっと嬉しい」

食満は平太へとそう言い、その小さな手を握りしめる。少し戸惑ったような平太に食満はにこっと笑いかける。

「それに平太だっていつかはこうやって後輩を守るんだぞ?」
「…僕も?」
「そうだ。あと五年もしたら平太だって六年生だ。その時はお前が怪我してでも誰か守る番だ」
「…僕に出来るかな」
「出来るさ。俺だって昔は先輩に守ってもらってばっかりだったんだから」

食満は平太の腕を引き、そしてぎゅうと抱き締める。平太は食満の腕の中でゆっくりと目を閉じた。

「先輩の先輩はどんな人だったんですか?」

平太の質問に食満は横になりながら「んー」と口を開く。平太も同じように食満の隣に横になり、そしてすぐ傍にある食満の顔をじっと見つめた。

「…一年生の頃に文次郎と喧嘩してな、度胸試しで二人で山に入った事があったんだ。神様の木って呼ばれてる大きな木があって、その葉っぱを持って帰った奴が勝ちっていう勝負をしたんだよ。見つかると怒られるからって夜にやったのがまずかったんだよな。俺も文次郎も狼に追いかけられて危なかったんだ。けどその時に先輩が助けに来てくれてな、俺と文次郎二人を抱え上げて、そして狼に蹴りを入れたんだ」
「狼に?!」
「そう。思いっきり狼を蹴っ飛ばしたんだ。そしたら狼がきゅううんって犬みたいに鳴いたんだよ。群れに追っかけられてたんだけど、蹴られた狼が頭だったみたいで他の狼も尻尾巻いて逃げて行ったよ。あの時ばかりは死ぬかと思ったんだけどなぁ」

食満は懐かしそうに瞳を少し細めている。そして平太は初めて聞く話に目をきらきらと輝かせていた。

「その先輩すごく強いです」
「そう。強い人で、あの後すごく怒られた。俺も文次郎もその先輩にぶん殴られたよ」

ケラケラと食満は笑ったが、平太は顔を引き攣らせて固まっている。

「平太?」
「け、けま先輩も、殴るんですか?」

もしかしなくても自分も殴られるんだろうかと思ったのだろう。平太は恐る恐る食満へそう尋ねる。

「馬鹿だなぁー。俺が平太を殴るわけないよ。だって平太はすごく優しくていい子だろう?」

食満は思わず笑って平太の髪を指で梳いた。髪紐は既に外しており、子供独特の細く柔らかい髪を食満は何度も指で梳く。それを平太はくすぐったそうにしていた。何度も髪を撫でられて、平太はようやく食満の言葉を信じたようだった。安心したように食満へと凭れかかり、「食満先輩、もっとお話ししてください」と話をねだる。

「そうだなーじゃあ、俺が三年生の頃の話をしようか」

食満は平太に自分の分の上着を掛けてやりながらいつもよりずっと小さな声で平太に昔の話を聞かせてやった。

「…食満先輩も、昔は小さかったんですねぇ」

平太は眠気を追い払うように目を擦りながら必死に話を聞いていたが、疲れている為かすぐに瞼が落ちる。

「平太、もう夜も遅い。眠りな」
「…先輩は?」
「俺ももう少ししたら寝るから。おやすみ」

そっと平太の髪を撫で、食満は平太が目を閉じるのを見届けた。すぐにすーすーと規則正しい寝息が聞こえてくる。

「疲れてたんだなぁ」

平太にとって多分今日は大冒険だったのだろう。そう思うと自分を信頼して眠っている平太が食満は可愛くて仕方がない。

「おやすみ、いい夢を」

そっと平太の髪を撫で、食満は体を起こす。すぐ目の前ではまだ火がパチパチと音を立てて燃えている。足元に落ちていた木の枝を拾い、食満はその火の中へと投げ入れる。
月は既に西側の空の低い位置へと移動していて、もう数時間もしたら沈むだろう。食満はもう一度枝を拾おうと手を伸ばしたが、その時背中の傷が痛んだ。顔を歪めるだけで声を出さず痛みに耐え、拾い上げた枝をまた火の中へと投げ入れる。そして傷を負わせてしまったと泣いた平太と、同じように泣いた記憶を思い出した。

「…懐かしーな。先輩、まだ元気かなぁ」

食満はひとりそう呟き、いつかの記憶を探すように夜空の星を見上げていた。



*:*:*



太陽が昇ると眩しくて寝ていられる筈もなく、平太は目を覚ました。ぼんやりした頭のまま体を起こし、そして辺りを見渡すと夜は燃えていた焚火がすっかりと消えていた。

「起きたか?」

どうやら川から水を汲んで来たらしい食満が水筒を持ったまま平太へと笑いかける。

「おはようございます」

昨夜の出来事を思い出して平太は慌てて食満へと頭を下げた。

「おはよう。顔洗っておいで。朝飯にしよう」

食満の言葉に頷いて平太は立ちあがり、すぐ近くで流れている小川へと駆けだした。
川の水は空気よりも随分と冷たく顔を洗うと目が覚める。そして平太は水面を鏡代わりにして髪を結った。

朝飯というのは昨夜の夕飯と同じく握り飯だった。冷たくなっても美味しいのだから握り飯を考えた人はすごいなぁと平太が考えているともう食べ終えた食満が「学園に戻ったらおばちゃんの美味しいご飯が食べれるからそれまで我慢な」と苦笑していた。

焚火の痕跡などをなるべく見つからないようにしてしまうのは忍者の性であり、血で汚れてしまった服も夜に洗って干していたのですっかり乾いている。全ての片づけと準備が終わると食満は休ませていた平太を呼んだ。

「さて、学園に戻るか」
「はい」

平太は頷き、食満の隣へと並んで歩き出した。
歩き出してすぐ、食満は平太の異変に気付く。昨夜のように何か考え込むように俯いているのだ。

「平太?」
「なんですか?」
「何か、言いたいことがあるんじゃないのか?」

食満がそう言うと平太は一瞬足を止めた。図星ということなのだろう。食満は足を止め、そして同じく足を止めている平太を見つめる。

「言いたいことがあるなら言ってくれないか?」

食満は屈んで平太の目を見つめる。真直ぐに見つめられ、平太はすぐに俯いてしまった。指先を弄りながら「でも」と口を開いたが、すぐに押し黙ってしまう。

「平太、俺はそんなに頼りないか?」

その言葉に平太は慌てて顔を上げ、そして首を横に振る。素直な平太の事だから本心なのだろうと食満は嬉しく思った。

「じゃあどうして話せないんだ?俺は平太がどんなわがまま言っても困らないぞ?」

食満はそう言った後、「あ、でも空を飛びたいとかは無理かなーうーん」と悩み始める。平太はそんなに高いところが好きなわけではないので慌てて「空は、別にいいです」と告げる。食満ならそれすら叶えてくれそうだと思ったのだ。

「そうか?」
「はい」
「それなら良かった」

安心したような食満に平太もほっと安心した。そして手をぐっと強く握ると意を決したように「あの、僕、」と口を開く。

「ん?」
「あの、僕、その、食満先輩と、手、繋ぎたいです!」

勇気を振り絞ったと言わんばかりに平太はぎゅうと目を瞑っていた。その様子が微笑ましくて食満は思わず笑みを浮かべてしまう。そして腰を上げた。

「平太、ほら、」

そう言って差し出された大きな掌を平太は強く握りしめた。初めての時と同じい大きくて熱い掌に平太はにっこりと笑みを漏らす。

「な?困らなかっただろう?俺だって平太と手繋ぎたかったんだから」
「…そうなんですか?」
「そうだよ。平太はいつも自分はいいって言うだろう?寂しかったぞ」
「僕、あんまり迷惑かけちゃダメだって思って」

平太のその言葉に食満はぎゅうと平太の手を強く握りしめ、「迷惑なんかじゃないさ」と言い切る。

「さぁ、学園に帰ろう」

食満の言葉に平太は頷き、二人はまた歩き出した。





二時間半も歩けば学園に着いた。あまりにもあっという間だったので平太は少し残念に思っていた。もっと手を繋いで、食満を独占していたかったのだ。
門をくぐるとそこには金吾と喜三太、そして山田先生が立っていた。

「二人も今戻ったのか」

山田先生に食満は「はい」と短く返す。

「我々も今戻った。早めに家は出たというのに近くの竹林でなめくじ捕りに夢中になっておったよ」

山田先生はやれやれという風に疲れた声で笑う。
会話をしている二人を平太はじっと見上げていた。未だ手は繋がれたままで平太は自分からは離さなかった。

「あれ、平太だ!」

なめくじに夢中になっていた喜三太はようやく平太に気付いたようで、すぐに食満にも気が付いた。

「食満先輩も平太も、どこに行ってたんですか?」

喜三太のその質問に食満は喜三太と平太を見比べた後、「二人の秘密だよ」と笑った。

「なぁ?平太」
「はい。秘密です」

平太も食満を見上げてにっこりと笑う。

「えぇ〜ずるいです〜」

喜三太は納得がいかないというように唇を前に突き出してバタバタと地団太を踏んでいた。それでも食満は秘密だと言い張り、「二人とも、荷物を部屋に置いてきな。食堂に行っておばちゃんのご飯を食べよう。金吾もだぞ」と平太の手を離す。

長屋へと戻る時、喜三太が「平太、教えてよ〜」と言ってきたが、振り返った時に目が合った食満が人差し指を唇に当てるのを見て平太も同じように人差し指を唇に押し当てた。

「食満先輩と僕の秘密なんだ」

そう言った平太の声は何処か誇らしげで、その声を聞いて食満は思わずその場に屈んで笑いを堪えていた。

 




(2011/11/29)