白 夜 の 果 て に
意識が浮上して目を開くと天井が見えた。何だか、随分と長い夢を見ていたような気がする。いつもより体が重く、何だか意識もぼんやりとしていて、まだ夢の中なのか、それとも現実なのか上手く判断出来ないでいる。
朔が夢現で寝返りを打つといつもなら隣に敷かれている平太の布団が片付けられていた。
「…平太?」
名を呼んでみても返事は無い。家の中はとても静かで、自分以外の誰かがいる気配なんてない。
朔が体を起こそうとすると腰に鈍い痛みが走る。その痛みにようやく朔は目が覚めた。昨夜、平太が自分を抱いたのだ、と思うと顔から火が出そうだ。朔はまた横になると枕へと顔を押し付け、布団を頭まで被る。平太が今家にいない事に何処となくほっとした。多分、顔を合わせたら恥ずかしさの余り平常心ではいられない。
あんなに時間をくれと言っていた平太がどういう経緯で自分を抱いたのか。それをどうしても思い出せなかったが、好きだって言ってくれた平太の声は思い出せた。記憶が曖昧なのは酔ってたからだろうか。酒を飲んだ記憶もないが、朔はきっと酔っていたんだろうと結論付ける。大事なことはそれではなく、平太がようやく進もうとしてくれた事だった。
「…平太は仕事行ったのか?」
どうして起こしてくれなかったのかは気になったが、平太の事だから仕事を休めっていう事なのだろう。平太は朔に対して甘く、そして過保護だ。それを知っているから平太がいない家に残された事もそんなに不思議ではなかった。
深呼吸をすると肺いっぱいに甘い空気が充満する。この香を焚いたのも平太なのかな、と思うと少し笑みが零れた。確かに、雰囲気は少し変わる筈だ。でも朔はこの香を平太がいつ焚いたのか、どうしても思い出せない。
形のない不安が急に生まれ、ざわざわと胸に巣食っていく。初めて平太と体を繋げた翌朝だというのに、どうしてこうも不安になるのだろう。じっとしていると不安に中を食い尽くされ動けなくなりそうだった。
朔は深く深呼吸をすると体を起こす。そして鈍く痛む腰を片手で抑えながら立ち上がった。
家はいつも通りだ。なのにどうしてこんなに違和感を覚えるのか。平太がいれば平太にその理由を尋ねられた筈なのに、と朔はため息を吐く。
とりあえず仕事を休むわけにはいかない。店に顔を出さなければ、と寝巻を脱ぎ、服を着替えて朔は足駄を履こうと腰を下ろした。その時足に何かが触れた。
「何だ?」
足に触れたものが何なのか。気になった朔はまだ結っていない髪を耳に掛けてしゃがみ込み、手を伸ばしてそれを手に取った。そしてそれを目にした瞬間、脳をまるで小さな虫に噛まれたような痛みが走った。
朔が見つけたもの。それは平太が見落としてしまった棒手裏剣だった。朔の足駄の影に隠れていたので見落としてしまったのだろう。
「…これ、」
頭が痛んだのは一瞬だったが、その痛みに景色が揺らんだ。朔は慌てて柱へとしがみ付き、痛みが去るのをじっと待つ。記憶は遠い霧の向こうからゆっくりとやってきた。
昨夜、この家を訪れた男のこと。
その男に刀を向けられたこと。
「けま」と知らない名で呼ばれたこと。
平太が庇ってくれたこと。
そして平太を助けるためにその男を刀で刺し殺してしまったこと。
それらの記憶は痛みと共に甦る。そして蘇ってしまえば、死体が消えていつも通りであるこの家が怖かった。
死体が無いということは平太が片付けてくれたんだろう。もしかしたら、自分を庇って自らやったと言い出したのかも知れない。平太ならやりかねないと思うと朔は血の気が引いた。昨夜とは違って冬にしては暖かいというのに、朔の指先は昨夜と同じくらい冷たく、そして手は震えていた。
家を注意深く見渡すと、違和感をもうひとつ覚える。何かが違う。その何かを必死に考えながら家の中を見ていると、朔は平太の荷物が無くなっている事に気が付いた。
清さんに貰った服などは置かれているものの、平太が初め来た時に持っていた荷物だけが無いのだ。
「…平太?」
不安は更に大きくなった。鼓動が早くなって息が苦しいような気がする。
朔はふらふらと家を出ると店へと急いだ。本当なら走りたかったが、下半身のだるさと動悸でそうもいかず、ただ出来る限り急いで店へと向かった。
町は普段通りで、昨夜誰かが死んだ事なんてなかったかのようだ。もしかしたら全部悪い夢だったんじゃないかとさえ思えてくる。けれど夢じゃないということを朔は知っていた。刀が人間の体を貫く時の感覚と血のぬめりが未だに手についているような気がする。怖くて仕方がなかった。それでも頼れる平太の姿は何処にもない。
店に着いた時、朔の息は乱れていて、まだ結ってない髪が邪魔で耳にかける。まだ支度が終わってないにも関わらず、慌てた様子の朔に店にいた旦那もおかみさんも驚いて顔を見合わせていた。
「…旦那!平太は?!何処にいますか?」
息を整えるよりも先に旦那へとそう尋ねる朔に旦那は少し困ったような顔をした。朔の様子に戸惑ったのだろう。
「…調子悪くて休むんじゃなかったのか?平太がそう言ってたぞ?」
入り口に立っている朔を旦那は店内へと招き入れ、椅子へと座らせた。乱れた髪が一束口元に張り付いている。興奮した様子の朔におかみさんがお茶を淹れて来てくれた。
「…平太、来てたんですか?あいつ、何処にいますか?俺、平太に会わないと…」
涙で声が詰まっている朔の背中をおかみさんが撫でる。そして「髪くらいちゃんと結いなさい。みっともないでしょう」と髪を結ってくれた。
旦那とおかみさんに会うと朔は少しずつ落ち着き、お茶を一杯飲み終わる頃には息切れも涙も止まった。
「…平太は?」
朔の再度の問いに旦那とおかみさんは顔を見合わせて困ったようにしていたが、教えないわけにもいかないと判断したのか「いないよ」と簡潔に告げた。
「…いないって」
二人の言葉に朔は目の前が真っ暗になったような気がした。
「朝早くに来てな、郷に戻りたいって言い出したんだよ。確かに正月に帰らなくていいのか、って聞いていたが、昨日までは帰らないって言っていた奴が突然帰るって言い出すんだから何かあったんだろうと思って…」
「止めなかったんですか?」
「止められねぇだろうが。あの平太が帰りたいっていうくらいだから何かあったんだろうし」
旦那の言葉に朔はその通りだ、と思った。あの平太が帰りたいと言い出したのなら止めるのは難しい。分かっているけれどそれでも何故止めてくれなかったのだと思わずにはいられない。
「…で、平太は、平太の郷って何処なんですか?」
「…追いかけるのか?」
朔は黙り込んだが、その沈黙は肯定だった。旦那は一呼吸置いてから「だと思ったよ」と笑う。
「平太に朔には帰るって言ったのかと尋ねたらな、あいつは黙って笑うだけだったんだ。そうやって返せばこっちが何も言えないって分かってんだ。あいつは賢いからな。そして平太がそうするってことはお前に引き留められたくないからだ。だからな、朔、今のうちに俺を褒めろ」
旦那が楽しそうにそう言うのだから朔は呆然としながら旦那の言葉の続きを待つ。
「隣町の正二郎のとこに使い頼んだんだ。結構重たい品でな、幾ら平太で少しは遅れるだろうよ。平太の郷はここからだと北の方向だ。隣町からだと峠道の一本しかねぇ。先に峠で待ち伏せすれば会えるぞ」
旦那は笑いながら朔の肩を叩く。
「正二郎の店に平太が行って、すぐ離して貰えるわけねぇからな。もてなす様に書いた手紙も持たせたから今から行けば間に合うだろうよ」
真っ暗だった目の前に光が差したように感じられ、朔はようやく旦那へと視線を移す。旦那は朔を安心させる為か、いつものようににかっと歯を見せて笑った。
「ほら、行くんだろう?」
背中を軽く叩かれ、朔は頷く。おかみさんがいつの間にか握り飯を用意してくれて荷物として持たせてくれた。
「さっさと平太を連れて帰ってこい」
朔へ荷物を持たせ、店から連れ出すと旦那は肩を軽く叩いた。振り返ると旦那とおかみさんの間から百合が顔を覗かせていた。何も知らないだろう百合が「いってらっしゃい」と笑顔を見せたのが朔の背を押した。
「行ってきます」
朔がそう言って手を振ると皆が手を振ってくれる。朔は憑き物が落ちたようにまっすぐ前を向けた。
平太に追いつかないと、そう思うと自然に足は速くなる。そして気持ちが昂ぶっているからか、腰の重みもあまり気にならない。朔は平太が向かったとされる隣町へと急いだ。声を掛けてくる人もいたが、片手を上げるだけにとどめ、足を止めない。町を出ると隣町までの道を一度も休まず歩いた。
普段よりも早く隣町へ着くと、朔はそのまま峠へと向かうのではなく、平太が使いを頼まれている先輩の店へと向かった方がいいのではないかと思い、峠へ向かってところを引き換えして町へと向かった。
隣町は城が近い為、朔が住んでいる町に比べると更に華やかで大きい。住んでいる町の人の数も多いが、旅で訪れる人も多く、大通りは人で賑わっている。朔の先輩に当たる正二郎はこの大きな通りに店を持っていた。朔の先輩である正二郎の店は呉服屋兼小物屋だ。服と一緒に服に合う簪やらの小物を売っているのだ。
刀を腰に下げた武士の姿や流行りの髪飾りをつけた若い娘や商人等の姿が大通りに見られ、朔は人の間を縫って歩き、店へと急ぐ。
暖簾をくぐって店へと顔を覗かせると兄弟子である正二郎がすぐに顔を見せ、朔を見つけるとパアと顔を明るくしてすぐに奥から飛び出して来た。
「…正二郎兄さん、平太、来ましたか?」
朔の問いにすぐに正二郎は真面目な顔になった。
「あぁ、来たけどついさっき帰ったぞ?何かあったのか?」
正二郎のその言葉に朔の顔色は変わった。ここに寄らずそのまま峠へ向かっていたら間に合ったかも知れないのに。そう思うと先ほど下した自分の判断の甘さに泣き出したくなった。
「朔?どうした、なんかあったんか?平太もなぁ、夕飯まで食べていけって言ったんだが急いでいるからって断られたんだ。あいつが人の誘い断れるとは思わんかったから安心したのも事実だけどな」
ハハッと大きく笑う正二郎だが、朔が青い顔をして突っ立っているままだったのでそれ以上笑わず、朔の顔色を窺った。朔は正二郎の言葉の半分は耳に届いていない様で、呆然としたままだ。
「平太は日が暮れないうちに峠を越えたいって言っていたが、朔は平太を追っているのか?それならまだ間に合うぞ?」
「え?」
「峠への近道があるんだ。治安が悪いところにあってあんまり勧められないんだが、どうしても追いかけなければならないんなら使うしかないだろう」
正二郎は店から出て北西の方角を指した。あの辺りは安い宿屋や女を買う店が連なっており、正二郎が言っていた通り治安が悪い。夜になるとぎらぎらとした目の男たちが行き交う場所になっていて、暴力沙汰の事件や窃盗などの事件も多かった。
「あそこからな、北へ向かう細い道が伸びてるんだ。そこをまっすぐ行けば峠にぶつかる。町を出て峠に向かうより半時ほど早くのぼれるんだ。だからあの道を行けば間に合うよ」
正二郎の言葉に耳を傾けていた朔は聞き終わるとすぐに一歩踏み出した。
「…正二郎兄さん、ありがとうございます。俺、急ぐんで」
それだけ残すと朔はすぐに大通りを北西に向けて歩き出した。
どこか頼りなさげに見えた朔の背中に正二郎は一抹の不安を覚えたが、これは平太と朔の問題だと分かっているので口を出すわけもいかず、ただ人混みに紛れて見えなくなる朔の背中を見送った。
「…やっぱり何かあったんかえ?」
店の奥から出てきた正二郎の妻は心配そうに立っている正二郎の隣に並んで立ち、もう見えなくなった朔の背中を探した。
「いんや、大丈夫だろう。しかし穏やかな二人がなぁ、どんな喧嘩したんだろうか」
事情を詳しく知らない人から見れば、平太と朔が喧嘩したようにしか見えない。旦那も正二郎も今回の騒動をそう認識していた。
「男の人やさかいに、やっぱり熱いもん秘めてるんとちゃいますか?」
笑みを浮かべながら楽しそうにしている妻に正二郎は複雑な顔を見せた。数年前、まだ店を持つ前に兄弟子と揉めて飛び出した事を思い出したのだ。彼女もそれを思い出しているようで楽しげにくすくすと笑う。
「まぁ、どっちにしろあの二人ならすぐ元に戻るやろ」
「そうやねぇ」
二人は暖簾をくぐり、店内へと戻った。まだ若い弟弟子二人の喧嘩の行く末をのんびり見守る。それが年長者の出来る事だ。
「もし平太が朔の家に居辛いと言い出したら、こっち呼べばいいしな」
「そうやね。あの子来てくれたら客増えるわぁ」
楽しそうに笑いながらも二人は心の何処かで「まぁ、そんな事にはならないだろう」と思っている。雨降れば地固まるというのを知っているのだ。
「無事に会えるとええんやけど」
「そうだな」
二人は店内に先ほどまでいた平太や朔を思い出しながら二人が無事に会えるよう祈っていた。
*:*:*
治安が悪い、というのはまだ日が沈まぬ夕方でも変わらないらしい。北西の例の通りへと入ると刺さるような視線を幾つも感じた。人の姿はあまり見えないのに視線の数はそれよりも多い。どこかに潜んでいる誰かがこちらの様子を窺っているのだろう。
怖い、とは思ったがそれでも平太がいなくなってしまう方が怖い。だから朔は早足で通りと抜け、正二郎が言っていた峠への近道である北道の前で一度足を止めた。
細い道と言っていた通り、本当に細い道だった。人が二人通れるかどうかの細道で、道、とぎりぎり呼べるものだ。道は北にある峠へと一直線へ向かっている。これを登りきれば平太が峠を通り過ぎるのに間に合う。そう思うと引き返すなどという選択肢はなかった。
朔が細い北道へと進む姿を陰から見ている男達の姿があったが、平太の事ばかり考えて前しか見ていない朔は彼らに気付けなかった。
あまり使われていない道なのか、通り過ぎる人すらいなかった。風が吹く度に近くの草木が揺れ、獣が潜んでいるのではと冷や汗も出たがそれでも一々気にして足を止めている時間はなかった。
険しい道に息が切れ、ひゅーひゅーと苦しげな呼吸に変わる。腰の痛みがこういう時に顔を出し、近くに落ちていた棒切れを杖代わりにして朔は道を歩き続けた。
道が突如急になり、近くにある木などに手を置き、急な道を上がると視界が広がった。そこは少し広めに作られた休憩所のようなものだった。すぐ奥に階段が見え、階段の五段先でこの道は峠とぶつかっている。ようやく峠の道が見えてほっとして足が崩れそうになったが、朔は休憩所のような広場で足を止めず、そのまま峠道へと向かった。
結構な速度で登ってきた。だから間に合っていると信じたい。
もうすぐ陽が沈む。辺りは段々と暗くなっていて足元の辺りは良く見えない。これ以上暗くなったら平太が通っても顔は見えないな、と朔が不安に思っていると後ろから「そこの君」と声を掛けられた。振り返ると町人の格好をした男が立っている。後ろにいるということはあの道をのぼってきたのだろう。それにしても息が切れておらず、すごいな、と朔は他人事のように思っていた。
「実は手が足りないんだ、少し来てくれないか?急になっていた場所があっただろう?一人では荷を上げられなくて、少し手伝ってくれるだけでいいんだ」
いつもならすぐに助けに行くが、平太を待つ今は少し躊躇ってしまった。けれど辺りに人の姿は無く、平太が通るのならすぐに気付けるだろうと、少々悩んだ末に朔は頷いた。
「すまないねぇ」
男の言葉に「いえ、困った人を助けるのは当たり前ですよ」と朔は笑う。先にと促されたので男より先に階段を下りた。階段を下りて休憩所に出るとそこにはさっきの男とは別に町人の格好をした男と武士の格好をした男の姿がある。にやにやしているその表情に嫌な予感がしたが、一度引き受けたのを断るなんて朔には出来ない事だった。
「三人で運べないものってなんなんですか?」
振り返るようにしながら尋ねた朔に男は答えなかった。答える代わりに朔の長い髪を突然引っ張り、姿勢が崩れた朔の背を蹴った。
あまりにも突然の事に声も出ない。朔は男三人が取り囲む円の真ん中へと倒れ込み、顔を上げると彼らは相変わらずにやにやと笑みを浮かべていた。
怖い。
つい昨夜覚えた恐怖と同じものが朔を襲った。泥がついた指先は震え、尻餅をついたまま朔は後方へとずるずると下がる。
大きな木の幹に背がぶつかり、それ以上逃げる事も出来なくなると、ただ男達を見上げるしかなかった。
「挨拶もなしで逃げるなんてひどいっすね」
「まあ、しょうがないんじゃないの」
「聞きたい事あるだけですよ。そんな怯えないでください」
男たちは時々笑いながら朔へとそう告げる。
「久しぶりだね。食満。まぁ、死体が見つからなかったのはあんただけだから生きててもおかしくはないけど、でもまさか生きてるなんて思いもしなかったよ」
けま、という言葉に朔の血の気は更に引いた。もしかしなくても、こいつらは昨夜突如襲ってきた男と同じく「けま」という人間を追っているのだろう。そして、彼らの言動からしてそれはどうやら自分だ。彼らが何者なのかも、自分が何をしたかも、自分が本当に「けま」という人物なのかも分からないが、でもそれが間違いではなさそうだという事は分かった。
「なぁ、こいつ相当怯えてるぜ?もしかしたら人違いなんじゃないのか?」
朔の様子に気が付いた一人が疑うように呟く。けれど「そんなわけないって」と一人の男が突然朔の長い髪を片手で掴み、もう片方に小刀を持った。そして結っている部分より少し上辺りで朔の髪を躊躇うことなく切っていく。
ぱらぱらと自分の髪が落ちてきて頬や鼻先に触れた。男は長い髪の束を地面へと投げ、「ほら」と言う。
「城に入ってきた時と同じだろ。他人の空似でここまで似るもんか」
さっきまで人違いかも知れないと疑っていた男も、髪を短くした朔を見て考えを改めたようで「そうだな」と言う。
「さて、俺ら待ち合わせしていてもう一人が来ないんだ。もしかしてお前が殺したんじゃねーだろうな」
男のその言葉に血に濡れる感触を思い出す。
刀が人間の体に入っていくあの感触、血が噴き出す様。ぬるりと生暖かい液体が皮膚の表面を伝っていく感触。それが生々しいくらいに甦る。
「あ、顔色変わった」
朔の顔色が変わった事で男達の顔色も変わった。怒りをあらわにするように眉間に皺を寄せ、武士の格好をした男は腰に差している刀に手をやっていた。
「お前に恨みがあるのかと言われたらそんなにあるわけじゃない。きっと殺したのだってあいつがお前を殺そうとしたからだろう?けど、お前の首を持って帰ると褒美が貰える。だから大人しく死んでくれ」
殺される。
恐怖で歯の根が合わずがちがちと音がなる。鞘から抜かれた刀が少ない光を集めて僅かながらに光った。
今度は本当に殺される。
男が刀を振り上げ、その先を見るのが怖くて朔は目を強く瞑った。しかし幾ら待っても痛みは来ない。辺りはシンと静まったままでもしかしたらもう死んでしまったのかも知れない、と朔は恐る恐る目を開けた。
男は刀を振り下ろしていた。けれどその刀の先を朔の前に立った男が別の男が持っていた小刀を奪ってそれで受けていたのだ。
見覚えのある背中。見覚えのある髪。見覚えのある指先。
「…へ、いた?」
朔が平太の名前を呼ぶと目の前の人が少しだけ振り返り朔を見つめた。
「大丈夫ですか?怪我はありませんか?」
平太の声は穏やかで、男の刀を受けているようには聞こえない。いつもの、家での平太の声と何にも変わらない。あまりにも緊張感のない優しい声にさっきまで張りつめていた空気が緩んでしまった。
平太の言葉に朔が頷くと、平太は視線を男達へと戻しながら「少しだけ目を閉じていてください。耳も塞いでくださいね」と言った。
朔は平太に言われた通り、目を塞ぎ、両手で耳を塞いだ。それでも微かに男達の荒い息や、じりじりと間合いを詰める様子が音として入ってきた。恐怖は指の間から少しずつ耳に入っていき、そして体を内側から溶かしていく。
「俺が教えた数え唄覚えていますか?あれを、そうですね、三回歌っていてください。約束です」
平太がそう言ったので朔は数え唄を歌い始めた。最初は声が震えて小さかったが、誰かか土を深く蹴る音や、刀同士がぶつかる音、何かが自分の耳元へと刺さった音が聞こえてきて、それを全て聞かずに済むように段々と声は大きくなる。
次第に小さな虫に噛まれたように脳がちくちくと痛み、その度に朔の中に恐怖が生まれた。思い出さないといけない事があるという事は知っているが、それでも思い出す事が怖くて堪らないのだ。まるで自らの記憶を誤魔化すように朔は大きな声で平太に教えて貰った数え唄を歌ったが、痛みは治まらず涙が零れた。ちかちかと、遠い記憶のようなものが暗い視界の先で瞬いていて、それを見たくなくて朔は更に強く目を瞑った。
そして言われた通り三回歌い終えると辺りはすっかり静まり返っていた。
耳を押さえていた手を離しても風で草木が揺れる音しか聞こえない。怖くて開きたくないときつく瞑った瞼をおそるおそる開けると一人立っている平太の背中が見えた。
辺りには先ほどまで朔を殺そうとしていた男達が息絶えている。
彼らの顔、そして辺りに落ちている忍者の道具。自分の左頬近くに刺さっている、苦無。それらの名前も用途ももう全部思い出していた。自分を襲ってきた奴らが誰なのか。目の前で自分を守ってくれた人が誰なのか。自分が誰なのか。もう知らない振りは出来なかった。
「…へい、た」
名前を呼ぶと平太は振り返って穏やかに笑う。足元には死体が三つも転がっているというのに、そんな事なんてまるでなかったかのように、平太はいつものように笑う。
「朔さん、お怪我はないですか?」
座り込んでいる朔の視線と同じ高さにする為に平太は屈み、そして肩に幾つもついている長い髪の残骸を手に取る。
「…折角の綺麗な髪が…勿体ない事しましたね。けどどうしてこんな所に…」
朔の肩に残っている髪を落とすように平太は軽く払った。
「…痛いところ、ありませんか?」
怪我をしているのは自分だというのに何も言わずにいる朔に平太は心配そうに尋ねる。平太の右肩や腕、足など怪我をしていて血が滲んでいる箇所が幾つもあった。そして綺麗な顔の左頬にも薄っすらと刀傷がある。
「…へ、いた」
「はい」
朔はもう痛いところはなかった。頭の痛みも消え、霧が晴れたかのようにすっきりしていた。随分と長い間眠っていてようやく目が覚めたようにくっきりと世界が見える。
「…朔じゃなくて、本当の名で呼んで」
平太の顔をまじまじと見つめて朔、もとい食満は静かに告げる。その言葉に平太は「…え、」と目を丸くし、食満へと触れていた手を止めた。
「本当の名前、呼んでくれ」
眉を切なげに寄せ、そう懇願する食満に平太は小さな声で「…食満、先輩」と呼ぶ。震えたような小さな声は遠い昔の、まだ十歳だった頃の平太の声に何処となく似ていた。
「食満先輩、記憶が…」
微かに震えた指先が食満の頬に触れるようか躊躇っている。そんな平太の手を取って食満は自分の頬へと平太の手を押し付ける。自分の手よりも暖かい平太の温もりに食満はゆっくりと瞼を閉じた。
「うん。思い出したよ。自分の事も、お前の事も。…ずっと、ずっと傍で守っててくれていたんだな。平太、ありがとう」
食満の言葉に、平太の瞳から涙が一筋零れた。食満に遅れてそれに気付いたらしい平太はもう片方の乾いた血が付いた手で拭った。
「嬉しいです…なのにどうして涙が、」
困ったようにそう言った平太を食満はぎゅうと強く抱き締める。初めは強張っていた平太だったが、暫くすると背中へと手を回してくれた。
「…食満先輩」
平太が名前を口にする度、食満は頷いて平太の背を擦る。平太は腕の中にいる人を確かめるように何度も名前を呼んだ。
何度も呼ばれるその名に食満は胸の辺りがじわじわと暖かくなってくる。平太がどれだけ朔を、そして自分を想ってくれていたのか。それは記憶が戻って初めて知る事だった。暖かく優しい声が名前を呼ぶ事がどうしてこれほど嬉しいのか。その理由も記憶が戻って初めて深く知る。
「…平太、帰ろう」
食満はそう言うと平太から体を少し離して平太の表情を窺う。辺りはすっかり暗く、少し離れただけでも見えなくなってしまう。だから互いの顔は吐き出される吐息が顔にかかるくらい近い。
朔の前から立ち去ろうとしていた平太はすぐに頷けない。答えを出せずにいる平太の手を食満は握りしめ、いつか、夜道を手を繋いで帰った時の様に指を絡める。
「…平太、俺達の家に、帰ろう」
平太の肩へと額を置き、「なぁ」と甘えるような声を出した食満に平太は少し間を開けて「はい」と短く答える。
「…帰りましょうか」
「うん。帰ろう」
互いに涙を堪えながら二人は微笑み合い、手は解かなかった。
もうすっかり辺りは暗い。二人の頭上高くに白い半月がぽっかり浮かんでいた。
(2012/02/29)
食満くんの帰還。
個人的に平太の身体能力は高いと信じてます。
食満くん以来の戦う用具委員長だったと信じてるのです。
あと、似非関西弁を入れてみました。関西の人、怒らないでください。