白 夜 の 果 て に








師走になると年末に間に合わせるように船が幾つも港に着き、半ばまでは少しも暇がないくらい忙しい。しかしそれも今年が残すところあと僅かとなると落ち着きを取り戻した。
どこもかしこももうすぐ来る新年の準備に忙しく、店はたまに客が来るくらいだ。朔は店番をしながら掃除を始め、客が来ると手を止めて接客をし、そして客が帰るとまた掃除を始める。年末独特の浮かれたような空気に朔は胸が暖まるような気がした。
今年もまた、無事に終わりそうだ。

戸が開き、振り返るとそこには武士の格好をした客が立っていた。腰に差された刀に見覚えがあるような気がしたのは気のせいか。朔は手を止めて客へと笑顔を向けた。

「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
「あぁ、探しているものがあって…」

男は笠を上げて朔の顔を見ると言葉をそこで止めた。驚いたように目を見開いたその男は「け、ま」と言ったがその言葉を朔は聞き取れず「何か仰いましたか?」と首を傾げる。

「…お客様?」

朔の言葉に男ははっとしたような顔になり、笠を下げて後ずさり、店から出る。怯えているように思えるその態度が気になったが、男は朔が声を掛ける前に「…用を思い出したので、失礼する」と言って足早に去って行った。
何だったのだろうか。狐につままれたような顔で朔は立ち尽くしていると、「朔」と名を呼ばれる。振り返ると毬をついている百合がいた。百合はいつもとは違う数え唄を歌いながら毬をつき、そしてその様子を後ろから平太が見ていた。

「ねー朔、どう?これね、平太に教えて貰った唄なの」

満足そうな百合は平太の足へと抱きついて朔を見上げる。

「平太が教えたって?数え唄って地域で違うのか?」
「…そうなんです」

朔は百合の足元に転がっている毬を拾い上げて百合のようについてみる。けれど知っている唄なんてないので何も出てこない。それは当たり前だったけれど空しく感じてしまう。自分には思い出せる過去がないのだ。
以前であれば空っぽに感じて苦しいと思ったが、今の朔は違う。今の自分が何も持たないのであれば、今から荷物を少しずつ増やせばいいのだ。平太と出会う事で朔は過去ばかりにとらわれるのではなく、未来を見る事の大事さを知った。

「…なぁ、俺にも教えて?」

朔が平太へとそう言うと、朔の手から毬を取った百合が「私が教えてあげるね」とまた初めから歌ってくれた。
客足が途切れた店で、平太と百合と朔の三人で、一時間程一緒に数え唄を歌っては毬をついていた。百合の可愛らしい声と平太の穏やかな声と自分の声が同じ唄を歌っているのが何故かものすごく幸せな事のように思えて、この時間がずっと続けばいいのに、と朔は何度も思っていた。






*:*:*






店はいつもと同じ時間に閉めていつものようにおかみさんが作ってくれる夕食を食べた。珍しく若旦那にせがまれて一緒に風呂へ入った二人が家へ帰る為に店を出た頃にはすっかり日は暮れていた。空気は冷たく、肺を冷やす。指先が一気に冷たくなり、朔は指先を丸めて息を吹きかけた。
二人が帰ろうとしたその時、後ろからおかみさんが平太を呼んだ。振り返るとおかみさんが平太だけを手招きしていた。

「あ、」

平太が何かに気付いたようだったので「どうしたんだ?」と尋ねると「頼まれ事されていたの忘れてました」と苦笑した。

「すぐ追いつくので先帰っててください」

いつもなら朔をひとり帰すなんて事はしない平太だが、今夜は特に冷えるので先に帰って火に当たって欲しいと思ったのだ。そして朔も寒いと思っているのだろう、いつもなら待つ筈なのに、指先にはぁと息を吹きかけながら頷いていた。

一人で帰るのは随分久しぶりだなぁとしみじみ思いながら朔は歩き出す。見上げると澄んだ空気の向こうに星が幾つも瞬いている。暗い道を照らすように細い月が輝いていたが、満月に比べるとその光は弱い。
風が吹くと葉を落とした木々の枝が大袈裟に揺れ、その音に朔はビクっとした。一度足を止めたがすぐに足早に歩き始める。つい一年半前まではいつも一人で歩いていたっていうのに、今では心細くて仕方がない。

家が見えた時はほっとしたし、家に入って灯りを灯すと無意識に安堵の笑みが零れた。日中誰もいないこの家の中は外と同じくらい空気が冷たい。朔は寒さに背を丸めながら火鉢に炭を入れて火を焚いた。赤い火はゆっくり時間を掛けて炭へと燃え移り、育っていく。その火に手を翳したまま朔は平太の帰りを待つ。意識はずっと玄関へと向かっている。

風の音と草木が蠢く音の合間に足音が聞こえたような気がして朔は視線を玄関へと向けた。すると足音は戸の前で止まり、そしてトントンと誰かが戸を叩く。
こんな時間に家にやってくるのは平太くらいな筈だ。朔は平太の両手が塞がってて戸を開けて欲しいのかと思い、「平太?」と声を掛けながら戸を開けた。
けれど戸の前にいたのは平太ではなかった。そこに立っていたのは刀を腰に下げた見知らぬ男だった。

「あ、あんた昼間の?」

昼に店に来た客だと思い出した朔が驚きながらも「あの、店はこっちじゃなくて」と言い掛けた時、男が刀を抜いた。驚きの余り固まった朔に対して男は「久しぶりだなぁ」と笑う。

「まさか生きてるとは思いもしなかったんだが、お前の首を持って帰れば褒美貰えるからな。会えて良かったよ。食満」

けま、という言葉が名であり、自分に向けられているのだと気付いた朔は聞き覚えのないその言葉に首を傾げ、苦笑いを浮かべた。

「…何の、冗談ですか?人違いじゃ、」
「冗談、ははっ。俺にとってはお前が生きている事が悪い冗談みたいだよ」

男は笑っている筈なのに目は怖いくらい真剣で朔の背に悪寒が走った。怖い、という感情に足が竦んだが、何とか後ずさる。後ろへと後ずさる朔を男は家の中に入って尚も刃を向ける。
怖い、怖い、逃げるように少しずつ後ずさっていたが、とうとう背中が壁にぶつかった。前を向くと男が汚い笑みを向けて「残念だな」と言う。
殺される。そう思った時頭の中を過ったのは平太だった。

平太、助けて。

それを心の中で何度も繰り返してみたが、男の背中側に見える開いた戸の向こうには人影もなくただ闇が揺らめいているだけだった。






*:*:*






おかみさんに頼まれていた仕事を終わらせた平太は急ぎ足で家に向かった。先に帰らせた朔が自分を待っていると思うと自然に足が速くなる。きっとどんなに急いで帰っても「遅い」と文句を言うんだろうと思うと何故か無意識に笑みが浮かんでいた。年齢にそれほど拘ることなく、朔は平太に甘える。困らせる事もあるが、頼られていることを実感出来るので平太は安心出来た。
首筋を北風が撫ぜていき、その度に身を縮こまらせて平太は急ぐ。髪を結えない程短く切っているのだが、そうとなると首回りが冷えて仕方がない。少し伸ばそうか、と考えていると家が見えた。

戸が開いていてそこから灯りが漏れている。こんなに寒いのにどうして戸を閉めないのか。平太は疑問に思い、そして胸に不安が生まれた。それは冷たい風が吹く度に大きくなって平太の足はどんどん速くなる。そして終いには走り出していた。

「朔さん?!」

声を掛けると同時に飛び込んだ部屋には朔と見覚えもない男がいた。武士風の男の腰に刀の鞘はあったが、肝心の刀は収まっておらず、男は朔へと刀を向けている。

「平太、」

平太が来てくれたことでほっとして朔は力が抜けた。へなへなと座り込み涙を浮かべた朔に平太は「朔さん、そこ動かないでください」と告げ、隠し持っていた苦無を男に向かって素早く投げつけた。
男がそれを避けたり刀で受けたりしているのを確認し、近くにあった熱された火箸を男の手元へと投げつける。男は苦無に意識が向いていて、熱されて赤くなっている火箸を避けれなかった。火箸は男の手の甲へ当たり、男はあまりの熱さに思わず刀を落とす。落ちた刀は朔の方へと転がっていき、男がそれを手にしない様にと平太は残っていた苦無を刀の位置へと投げ込んだ。

刀を取ろうとした男の手元へと苦無が投げ込まれたのだから男は慌てて手を引いた。そしてそのまま刀へと背を向け、平太へと向き合う。
見覚えのない男。けれど男が平太と同じように懐から棒手裏剣を取り出したのを見て平太はこの男が自分と同じ種類の人間だと分かった。
闇に属し、人であるという事を捨てて生きる者。彼は平太と同じく忍びとして生きている者だ。
互いに間合いを測り、じりじりと横へ移動する。平太は朔の前へと回ると足を止め、男の出方を見る。

「…平太、」

平太を呼ぶその声は恐怖に震えている。多分、どうしてこんな目に合うのか分からずにいるのだろう。何も知らず、死体にさえ戦く朔を誰かが狙うということが平太には考えにくかった。だからこそ目の前の男の狙いが自分なのだろうと決めつける。

「朔さん、そのままじっとしていてくださいね」

平太の言葉に朔は一度頷いた。そして息を潜め、自分を守ってくれる平太の大きな背中を見つめる。




膠着状態が崩れるのはあっという間だった。男が棒手裏剣を平太ではなく朔の方へと投げ付け、そして隠し持っていた小刀で平太へと斬りかかったのだ。朔へと狙いを定めた棒手裏剣を平太は近くに落ちていた火箸で払落し、落とせなかったもう幾つかは自ら掌や腕で止めた。斬りかかってきた男の刃も両手で受け止め、なるべく朔から離れようとじりじりと玄関へ向けて歩く。けれど朔の方に気を取られていた平太の足を男が蹴り上げ、平太は後ろへと転倒してしまった。
馬乗りになった男は平太の首筋へと刃を押し付けようとし、平太が必死に押し返すも不利な状況は変わらない。何か、何かないのかと平太は辺りを探してみたが、武器になりそうなものは無く、刃が首へと近付いてくる。せめて朔だけでも逃がそうと、朔の名を呼ぼうとした時、男の力が緩まった。
男の動きが止まり、視線が動く。男の視線を追うと、男は自分の胸辺りで視線を止めた。男の視線が止まったそこからは血に濡れた刀の先が飛び出していた。
刀は刺さるだけではなく、次の瞬間には捻られ、男の胸から刀が抜けた。男の口からは小さい悲鳴が漏れ、傷口から血が溢れだす。

「…あぁっ」

呼吸なのか言葉なのか測りかねる言葉を男は呟き、そして横へと転がる。傷口から流れ出る大量の血液は平太の胸を汚し、そして床をも汚している。
平太は上半身を起こし、隣で呻くように苦しむ男へと視線を向けた。背から刺さった刀は狙ったように心臓を綺麗に貫通し、捻られた上に引き抜かれた。男はもう助からない。苦しんでいる男は自分を死に追いやった人物を目に焼き付けるかのように、朔を睨みつけて死んでいった。


朔は平太の目の前で血に濡れた刀を握りしめたまま呆然と立ち尽くしていたが、男が死んだというのが感覚的に分かったのか、目を大きく見開き、刀を手放した。朔の手から落下した刀はまるで一辺の枝のように血溜まりに浮かんでいる。
家の中は静かだった。空いている戸から風が吹き付け、凍えるほど寒い。震えた唇は中々言葉を発さず、苦しそうに大きく呼吸だけを繰り返して空気を白く染めている。朔の瞳には涙が零れ落ちんばかりに溜まっていた。

「…朔、さん」

平太が朔の名を呼ぶと朔は緩慢な動作で平太へ視線を移した。目が合うと、朔の瞳から涙が一筋零れ落ち、次々と涙が溢れては零れていく。

「違う、俺、殺すつもりなんか、なかった…なかった」

青ざめた顔を震えた赤い手で覆い、朔はその場に崩れ落ちた。震えるその手に触れてみたが、冷たくて血が通っているのか疑うくらいだ。

「…平太を、平太を助けなきゃって思って、何かをって探したら刀が目に入って…そしたら体が…体が勝手に動いたんだっ!俺は、殺すつもりなんてっ」

朔は血に濡れた自分の手の平を見つめ、引き攣ったような笑みを見せた。その表情に平太は顔を歪める。それはあまりにも朔には似合わない表情だった。

「…なぁ、平太。俺ってもしかして…人を殺した事あったのかな」

朔の問いに平太は何も言えない。震えたように自分の体を抱き、蹲る朔にどう声を掛けたらいいのか分からなかった。

「平太、やっぱり俺、いい人間じゃなかったみたいだ…俺、首、切られるのかな」

朔は血で濡れた指先で自分の首を何度も擦り、目の前で息絶えた男の姿を呆然と見つめている。
朔の中に甦ったのは広場で首を晒されていたあの男の死体だった。人を殺してしまった自分も同じような末路を辿るのだろうと思うと恐怖の余り気持ちが悪くなる。

朔の瞳が虚ろなことに気付くと平太はようやく我に返った。そして血の海の中でひとり蹲っている朔の手を取り立ち上がらせると血で汚れてない場所へと移動させる。朔は未だ呆然としており、平太の腕を払ったりはしなかった。

次に平太は戸を閉めて辺りを見回す。すると壁に立て掛けられた茣蓙があり、それで死んでしまった男と血の海を隠した。隠したところで男が死んでいる事は変わらないが、せめて朔の目に入らないようにしたいと思ったのだ。朔はただ、平太の行動をぼんやりと涙を零しながら見つめていて、その様を見ていると平太は心臓が千切れるのではないかというくらい痛んだ。
次に平太は手拭いで血に濡れた朔の体を拭いた。べったりとついた血は中々取れなかったが、それでも全て拭いた。
血の気が無く、氷の様に冷たい手をぎゅうと握りしめて朔の名を呼ぶと朔は「…殺すつもりじゃなかったんだ」と繰り返す。涙腺が壊れてしまったのか、涙は止まらずに溢れ続けている。

朔の視線が死体の方へと向こうとした時、平太は朔の頬を両手で包んだ。そしていつもの声で朔の名を繰り返し呼ぶ。そうすると朔の目に段々と芯が戻ってくるのが分かった。

「…平太、どうしよう…俺、」

何もかもが怖くなってきたのか、朔は平太の腕の中で暴れようとした。そんな朔を強く抱き締め、耳元で何度も何度も「大丈夫です」と繰り返す。始めのうちはそれでも逃げ出そうと暴れていたが、次第に朔は落ち着きを取り戻し、平太の腕の中でじっとして平太の言葉に耳を傾けるようになった。

「朔さん、俺の事だけ考えてください」

平太の目をじっと見つめ、朔は一度頷いた。
藁にも縋る想いだった。朔にとって、信じられる人は平太以外いない。だから平太の言う事なら何でも信じられるような気がした。




今自分がしてやれる事を平太はずっと考えていて、そして今、結論が出た。それが正しいのかどうかは知りようもなかったが、それでもそれ以外にどうする事も出来ない。朔を守る為、平太が出来る事はひとつしかないように思えた。

平太はいつも肌身離さず隠し持っていた薬を朔に気付かれないように口に入れ、そしてそのまま朔へと口付る。
口付けは段々と深くなり、平太はその口付けの合間に朔の口の中へと薬を流し込んだ。朔は唾液と共に薬を飲み込んでしまった事に気付かない。
けれど何度も口付けを繰り返していると薬が効いてきたのか、朔の瞳がだんだんと虚ろになってきた。

「…俺が言う事だけ聞いてください」

平太の声に朔はとろんとした瞳のまま頷いた。

「今夜は誰も来なかった、いつもと同じです」
「…今夜は誰も、来なかった。いつもと、同じ」
「そうです。いつもと同じで誰も来なかった。二人きりです」

平太の言葉を朔が繰り返し、そしてまた平太も繰り返す。そうやって何度も繰り返すうちに朔は段々と意識が朦朧としてきて、平太が言うんだからそうなんだろうと思い始める。部屋の中に充満する血の匂いにも、今の朔は気が付かない。

「平太、好き」

朔は平太の頬を両手で包み、口付た。何故か心が、体が焦っている。今すぐ、平太に触れたい。そして触れてほしかった。

「平太、好き。好き」

何度もそう繰り返しては頬や鼻へとちゅっと口付る朔に平太は「俺も好きです」と返す。まるで針を飲むように辛そうな顔と声で繰り返す平太だけれど薬で朦朧としている朔にはいつもの笑顔に見えていた。


大切にしたいとずっと思っていたからこんな風になってしまうのは悔しかった。けれど、この方法以外、平太には浮かばなかった。朔が人を殺してしまった記憶をこれで上書き出来るのかは怪しかったが、これ以上他に選べなかった。
床へ押し倒され、平太を見上げる朔は何処か嬉しそうで平太の首へと腕を絡める。「好きです」という言葉をまるで懺悔のように繰り返す平太へ、朔も同じように「好き」と何度も応えた。
首筋へ唇を落とし、朔の帯を解く。現れた体に平太は優しくと触れる。冷たい体は平太を拒む事は無く、応えるようにと背へと爪を立てた。熱にうなされたように平太を呼ぶ朔の声に平太ものぼせてしまいそうだった。



薬の所為か、朔は一度果てるとすぐに意識を失った。平太は息を整えながら眠りに落ちた朔の横顔を見つめる。穏やかそうなその寝顔に満足すると朔の体を汚した自分の体液を手拭いで拭った。
敷いた布団へと朔を寝かせると平太はひとつ重い溜息を吐いて部屋を見渡した。血の匂いの中心には息絶えた男がいる。彼がどこの誰で、何が狙いだったのか平太は知らない。けれどきっと自分を狙ってきたのだろうと思った。もう忍びではない食満を、朔を狙う理由が見つからないからだ。そして彼がどこの誰であろうと、このままにしておくわけにはいかない。平太は、朔に日常を返してあげたかったのだ。

死体の顔を判別出来ないほど潰し、特徴的な体の部分は見つからないように顔と同じく潰した。そして衣類を剥がして裸体の死体を平太は人に見つからぬよう、丑三つ時に海へと沈めた。沈めるのに切れかかったロープを使ったのは、発見される時刻を操作したかったからだ。男の持ち物で燃えるものは全て燃やして男が来た痕跡事体を跡形なく消す。
血溜まりは全て拭き、血を含んだものは男の衣類と共に燃やす。一滴でも残さない様、平太は徹底的に血の跡を消し、匂いを消す為に以前朔が使っていた若い娘用の香を一晩中焚いた。部屋は甘い香の香りで充満し、そのうち血の匂いは隠れていった。
こうして男が来た痕跡はすべて消え、男の刀や武器を全て家の裏に掘った穴へと隠した。朝日がこの家を照らす頃にはあの男がこの家で殺されたという証拠は何ひとつ残らない。




*:*:*




平太は全てを終えると家に戻り、眠り続けている朔の傍に腰を下ろした。手の温度もいつもと同じくらいで、寝顔も穏やかだ。

(…多分、大丈夫だろう)

平太はそう思った。朔の頬をもう一度だけ撫で、「好きでした」とだけ呟く。意識がない朔にその言葉は届かなかったが、それでも平太は満足そうに瞳を細め、朔の手の甲へと口付けを落とす。
もしもあの男が自分を狙っていたとしたら。平太がいたことで食満を、朔を危険な目に合わせてしまったのなら。それが事実なら平太はもうここには居られなかった。

「…逢えて嬉しかったです。また、どこかで…逢えたら、」

平太の言葉はそこで止まる。そしてそれ以上を望んではいけないのだというように首を小さく横に振った。
静かに立ち上がった平太はまとめた荷物を背負い、笠を被る。ここに来た時と同じ荷物を背負って、同じ格好で平太は去って行くのだ。

「…お元気で」

名前を呼べなかったのは、どちらに別れを告げるべきか分からなかったからだ。振り返った先の朔は返事をしない。それでも平太は返事を待つこともなく戸を閉めて、二人暮らした家を出て行った。


昨日までの寒さが嘘のように空は晴れ渡り、太陽が姿を見せている。春のようなぽかぽかとした暖かな陽気に、自分がいなくなった後で朔が日常を続けて行けるように、と平太は願った。

 






(2012/02/23)

な、何も言うまい。
あと、エロは省略したのですが、怒らないでください。