ビイドロに反射した幾つかの記憶
峠の茶屋で腰を下ろし、団子を食べている若い男の姿が見える。人目を引くほど背がすらりと高く、黒い髪は短く刈られ、そして肌は白かった。少し長めの前髪に隠れている瞳の色は漆黒の様に黒いが眼差しは優しげであり、少し下がった眉も相まって穏やかな印象を与える。
その男の名は平太という。忍術学園で忍術を学び、去年の春に卒業した。そして今は城仕えの忍びである。
平太が仕える城はこの峠より遥か東の土地にある。ではなぜ平太が城を離れ、西側のこの地にいるのかというと、平太は今休暇中だった。休暇に実家には戻らず、遥か西の土地へと足を運び、そして暫く滞在している。職業柄色々調べてはしまうが、西側の動向の偵察をしに来た訳ではない。ただ、平太の先輩であった食満留三郎がこの地にいるという噂を聞いたのだ。だから平太は休暇全てを使って西の国を放浪していた。
先輩といっても共に過ごした期間は短く、たった一年である。それでも平太の中では彼は未だ大きな存在であり、会えるものならば今すぐにでも会いたい。けれどそれが叶う可能性があまりにも低い事を平太は知っていた。そしてそれを嘆いて涙を流すほどもう幼くはない。だから休暇をすべて使って西の方へと出向き、彼も見ただろう風景を目に焼き付けていたのだ。もし会うことが出来ればそれは幸いであり、そうでなくともこの地を訪れる事は平太にとって意味のあることだった。
休暇も残り少なくなり、早めに帰るならそろそろこの地を発たなければならない。あの人の影でもどこかに感じられたなら良かったけれど、生憎見掛けるどころか話しさえ聞かなかった。彼が忍という職に就いているのならそれは当たり前ではあるが、足取りを掴めないと言うのは少し悲しい。
(そろそろ店を出ようか)
平太がそう思って腰を上げようとした時、丁度客が店に入ってきた所だった。
「すみません」
客が店員へと掛けるその声に平太は動作を止め、客の姿を見つめた。声に、聞き覚えがあったのだ。短い言葉だけではそれが正しいのか判断が出来ないが、声を聞こえた時、懐かしさで心臓が震えた様な気がした。
客は若い男性で平太よりも身長が低かった。長い髪が笠の下に見える。
「団子一人前。前に座ってるから」
そう言った男は平太の隣りへと荷物を置き、そして笠を外した。長い髪は黒く、背の真ん中辺りまである。
「隣り失礼するよ」
満面の笑みを向けられ、平太は上手く返事をすることが出来なかった。そして返事をする代わりに隣りに腰を下ろした男の、男性の割には細いその手首を掴んだ。
「何用か」
声が低くなり、警戒するように吊りあがった瞳が細められる。そこにも懐かしい面影は幾つもあった。凛々しい眉は相変わらずで、前髪も以前と同じように長めで整っている顔に影を落としている。
「食満、先輩」
平太がようやく名前を呼ぶと目の前で男は目を大きく見開いた。
「俺、平太です。下坂部平太。食満先輩が覚えているかは分からないですが、一年の時同じ用具委員で」
平太の言葉を遮るように団子と茶が運ばれてきた。そして食満は平太の腕を解くと「覚えているよ」と笑う。
「座ろう」
そう言った食満の言葉に従って平太はもう一度腰を下ろし、一人前の団子を追加注文する。店の人が団子を追加で運んできては「ごゆっくり」と店の奥へと消えて行った。
店先で並んで腰を下ろし、団子を頬張る。分け前が欲しいのか、小鳥が飛んできては近くで可愛らしく囀った。
「…しかしでかくなったなぁ」
食満はもう一度平太へと視線を向け、懐かしそうに瞳を細めた。
「卒業する時にろ組で一番大きくなりました」
「そうか。あの小さかった平太がなー」
食満は団子へと伸びた手を止め、代わりに平太へと手を伸ばした。そして自分よりも高い位置にあるその頭へと触れる。
一年の頃の平太しか知らない食満からしたら、まさか自分より大きくなるとは思わなかっただろう。けれどそれは平太も同じであり、まさか食満の身長を自分が抜かしているとは思っていなかった。記憶の中の食満はいつも自分より大きく、平太は首が痛くなるほど見上げなければ食満の顔を見る事は出来なかったのだ。だからまさか、自分の方が高くなるなんて思ってもみなかった。
「食満先輩はお変わりないですか」
「まぁ、ぼちぼち元気にやってるよ」
「そうですか」
「平太は?学園ちゃんと卒業できたのか?」
「はい。今は東の方で城勤めしています」
「…そうかぁ」
食満は悲しいとも寂しいとも取れぬ声でそう呟くと黙ってしまった。そして木々の緑を眺めながら二人黙って団子を食べて茶を啜った。鳥たちは分け前を貰えないと知るとさっさと飛び去って行き、代わりに猫が平太の足へと擦り寄ってきた。にゃーと鳴かれても与えられるものはない。
「ごめんね」
平太は小さく呟くと三毛猫の首筋を撫でる。平太の長い指を猫はぺろりと舐めた。猫はどうやら人に慣れているらしく、平太の足元を離れようとはせず、ごろごろと喉を鳴らす。
「こっちにはどれくらい?」
食満の方へと視線を向けると食満は優しく瞳を細めて平太と猫を見つめている。
「…ひと月近く。でもそろそろ戻る予定です」
「そうか」
「はい」
「今日はまだ時間あるのか?」
「あります」
「なら、少し歩こう」
食満の言葉に平太が頷くと食満は腰を上げた。そして「お勘定」と店の中へと声を掛けた。
平太の分も払うと食満は言い張ったが、昔十分お世話になったから恩を返したいと告げるとさすがに食満は黙って平太が食満の分も出した。
店を出ると食満は峠を下り始める。食満の少し後ろを平太は歩き、目の前で揺れる髪の毛を見つめた。
懐かしい記憶の中でもやはり後姿を一番多く覚えている。それは平太がいつも食満の少し後ろを自信なく歩いていたからであるが、だからこそ今の光景に眩暈を覚えそうだった。
「平太?」
足を止めて振り返った食満が「お前気配消して歩くなよ」と困ったように笑う。
「視界にもいないのに気配まで消されると夢だったんじゃないかって不安になるだろう」
「すみません」
「でも気配消すなっていうのは無理だろうから、せめて隣りを歩け」
食満のその言葉に平太は頷き、そして隣りへと並ぶ。自分よりも背が高い平太を見上げることが少し不服なのか、食満は一度微妙な表情を浮かべたがすぐに「行くぞ」と歩き出した。
どこへ向かっているのか。それを知らされていなかったが、例え地獄だと言われても着いて行ったかもしれない。開けた視界の先で太陽がゆっくりと沈んでいく光景を見つめながら平太はそう思った。
「綺麗だろ?ここ、気に入ってるんだ」
夕日の光が食満の髪を照らし、陽に透けた髪は金色に光る。それを見つめながら平太は「綺麗です」と呟いた。
このまま時間が止まってしまえばいいとも思ったが、さすがにそれは口には出来なかった。今この瞬間があるというだけで贅沢な事なのだと平太は知っているのだ。
眼下に広がるのは畑や田んぼの他に民家がぽつぽつとあった。もうすぐ沈みそうな太陽はそれらを赤く染め上げ、黒い影を落とさせていた。
暫く黙ってその光景を見つめていた食満だったが、くるりと振り返ると今度は平太を見つめた。そして「色が白いのは変わらないなぁ。髪は短くなったけど、うん、似合ってる」と笑いかける。
「食満先輩は髪、伸ばしたんですね」
「伸ばしたというか、ただ伸びてるだけだがな」
「でも似合ってます」
食満の背後で太陽は輝く。だから眩しくて目を細めなければ上手く食満を捉える事が出来ない。
「…何かやっぱり調子狂うな。まだ、あんまり飲み込めてないや」
そう言って苦笑を浮かべた食満が突然「あ、」と声を上げて懐へと手を入れた。そして小さな巾着を取りだして平太へと見せる。
「それは?」
「これな、ほら」
小さな巾着の中から出てきたのは卒業式の日に平太が食満へと渡した海色のびいどろだった。丸いその形はところどころ欠けていたりする。
「この傷は前の仕事で付いた奴で、ついこの前まではきれいだったんだ」
大事にしていると告げたいのか、食満は言い訳を並べ始めた。けれどそれを言わなくても平太には十分大事にしていてくれていた事は伝わっている。常に持ち歩いてくれていることが何よりも嬉しいことだ。
「大事にしてくれていて、嬉しいです」
十歳の子供の宝物なんて、大人からしてみればがらくたに過ぎない。それでも同じように大切にしてくれていた食満のその心が平太は嬉しかった。そしてずっと胸の奥へと秘め続けていた感情が静かに溢れだす。
食満と過ごしたのはたった一年。だからこそ平太は自分が抱いている感情がただの錯覚なのか、それとも願望なのかよく分からずにいた。年齢を重ね、世の中の事を色々知る様になってもやはりそれらにちゃんとした名前を付けてやることは出来なかった。
憧れにしてはあまりにも深く、そして色と名付けるにはあまりに淡いそれらの想いを平太はようやく受け止める事が出来た。それは紛れもない恋だ。それも、春先の様な淡い初恋。そしてその感情が今溢れだして止まらない。
平太は目の前でびいどろを天へと翳し、きらきら光る輝きへと目を向けている食満の名を静かに呼んだ。
「何だ?」
平太へと視線を向け、笑みを浮かべるその人へ平太は「好きです」と一言告げた。だが、丁度その時、強い風が吹いて平太のその声を散らせてしまう。
「悪ぃ、風で聞こえなかった。もう一度言ってくれないか?」
びいどろを掲げていた腕を下げ、食満は平太に向きあって頼んだ。風は未だ強く吹き、食満の髪を大きく揺らす。
平太は一歩食満との距離を縮める。そして自分よりも小さな体を強く抱き寄せた。食満は驚いたように固まって動かない。それでも平太は食満の体を離さず、耳元へゆっくり唇を近付ける。
「ずっとずっと貴方の事が好きでした」
穏やかで優しいさざ波に良く似たその声は今度は風に消される事なく食満の耳へと届く。
食満の手の平からびいどろが落下し、二人の足元へと転がる。その少し先では夕日が作り出した影がひとつに重なっていた。
(おわり)
(2011/10/02)
平太×食満のお話です。
拍手に置いていたのを収納しました。
平太はダークホースですよね。そしてへいけまが大好きです。
どれくらい好きかというと、ぞうさんより好きです。