ビイドロに反射した幾つかの記憶
忍術学園へ出入り出来る唯一の門。この学園へと足を踏み入れるのならばその門をくぐる以外に方法はない。それは逆も同じ事で、この学園を出るのならばやはり門をくぐらなければならない。
そう聞くと大層な門にも思えるが、実際はしっかりした造りなものの、古びれた門である。
普段ならば閑散としているその場所が今は生徒や教師で溢れていた。門の近くに植えられている桜の木は大きな枝を広げ、そして薄桃色の儚げな花を咲かせては惜しみなく風に散らせている。
昨年この学園に入学したばかりの平太はひとり遠くから桜の花や人混みを眺めていた。怖がりで引っ込み思案な性格の平太はこの人混みに飛び込むだけの勇気がなかったのだ。本当はあの輪の中に駆け込んで伝えたい言葉があるにも関わらず、足が中々動かない。それが平太は恨めしく、そして情けなかった。けれど足が動かない以上仕方ない。だから遠く離れた場所でこの学園を去っていく六年生の姿を黙って眺めているのだ。
この春に学園を卒業して行く六年生はわずか六人であり、その中の一人である食満留三郎は平太が所属する用具委員会の委員長だった。
委員会の繋がりがあり、普段から関わる事が多い上に面倒見がいい食満は平太や同じく一年の後輩であるしんべヱ、喜三太、三年の作兵衛をよく町へと連れ出してお菓子等を買ってくれた。
委員会の皆と町へ下りる事は平太の数少ない楽しみの一つであり、そして食満がいつも買ってくれるお菓子はどれも平太が好きなものだった。食べるのが遅く、いつもしんべヱに取られそうになる平太のことを食満はよく気にかけてくれ、時には自分の分を内緒で分けてくれた。
他の六年生のことは怖い平太ではあるが、食満にだけは懐いていて、そしてとても好きだった。だからこそ卒業して行く食満へとどうしても一言告げたいのだが、引っ込み思案で怖がりの性格が災いして輪の中心で笑っている食満の元へと走り出すことが出来ずにいる。
(どうして僕はいつもこうなんだろうか)
平太はその場にしゃがみ込んで薄い水色の空を見上げた。春先の空の色は淡く優しくて平太は泣き出してしまいそうになる。慌てて唇を噛み締め、ぐっと堪えてみた。手の平は先ほどから強く握り締めていて痺れてきている。
先ほどまで止まっていた人の波が動き出し始めた。卒業生が門をくぐって出て行ってしまうのだろう。平太は何度も人々の中に食満の姿を探したが、遠くからでは見つける事が出来なかった。
このままもう会えないんだろうか。
そう思うとさすがに涙を堪え切れず、平太はその場に小さく丸くなったままぐすぐすと鼻を啜る。
「平太!」
突然明るい声が降ってきて顔を上げるとそこには同じ用具委員の一年であるしんべヱと喜三太が平太と同じ姿勢で平太の顔を覗き込んでいた。
「しんべヱ…喜三太」
驚いてそれ以外に声が出ない平太に喜三太が「平太、食満先輩行っちゃうよ?」と告げる。
「そうだよ、さよなら言わなくていいの?食満先輩、平太のことずっと探してたよ?」
鼻水を垂らしながらそう言ったしんべヱの顔を見て、また平太の瞳から涙が零れる。
「僕だって、ちゃんと、言いたい」
平太の言葉を聞いた喜三太はにっこりと笑みを浮かべて「じゃあ行こうよ」と平太へと手を差し出した。その手を見つめるだけで躊躇っている平太へ今度はしんべヱが「一緒に行こうよ」と手を差し出してくれる。平太ようやく頷いて、二人の掌へと手を伸ばした。
さっきまでどうしても動かなかった足が、二人の言葉で簡単に動き出す。自分には無いものを持っているこの二人を平太は尊敬している。そして同じように強くて優しい食満を平太は心から尊敬していた。
門の内側にはもう卒業生の姿はなかった。しんべヱが近くにいたきり丸に話を聞くと少し前に食満は他の卒業生と共に学園を出たらしい。
不安で涙が浮かびそうになった平太を見て喜三太が「大丈夫だよ」と呟いた。
「すぐに追いつくよ」
「そうだよ」
そう言ってくれる二人の言葉に小さく頷き、三人は門をくぐった。そして食満が歩いて行った方角へと走り出す。
「あ、出門表にちゃんとサインしてくださーい」
学園を出た三人に気付いたらしい事務の小松田の声が辺りに響く。
「うわ、小松田さんが追っかけて来るよー」
「よし、ここは僕に任せて!」
しんべヱが平太と繋いでいた手を離した。
「僕が小松田さん止めておくから、喜三太は平太を食満先輩に会わせてあげてね!」
しんべヱは足を止め、そして大きく手を振る。
「平太ーちゃんと食満先輩にさよなら言うんだよー」
しんべヱへと手を振り返し、平太は頷いた。
走って追いかけてきた小松田の腰へとしんべヱが飛びかかり、しんべヱの重みで小松田が転倒するのが見える。
「しんべヱが止めてくれてる間に、行くよ!」
ぎゅうと手を強く握り締めて喜三太も平太も必死に走り出した。
頬をすり抜けて行く風はまだ少し冷たくて鼻や頬はすぐに冷えていった。まだ一年生である平太と喜三太はすぐに息を切らしたがそれでも走り続ける。今走らないと、卒業して行く食満に会える保証はもうないのだ。
真っすぐな一本道の遠くに人影が見える。その人影が身につけている服に喜三太と平太は見覚えがあった。
二人は足を止めると大きな声で「食満せんぱーい」と叫ぶ。出せるだけの大きな声で二人は何度も食満を呼んだ。
そんな二人の必死な声が風に乗って届いたのか、遠くを歩いていたその人影が近付いてくるのが見えた。
「平太、行こう」
そう言って腕を引いてくれる喜三太に頷き、平太はもう一度歩きだす。
「食満せんぱーい、平太、先輩に言いたいことあるんだって」
えへへと笑いながら喜三太は平太と繋いでいた手を離して食満の足へと抱きつく。髪を撫でて貰いながら喜三太が「平太、ほら」と笑った。
「平太、追いかけてきてくれたんだなぁ、有難うな」
屈んで視線を合わせてくれる食満の顔を見ると我慢していた涙がまたぽろぽろと零れては平太の頬を伝った。
「どうした?ん?」
優しく声を掛けながら食満は平太の頭を撫でてくれる。委員会に行けばいつも撫でてくれたその手がもう無くなってしまうのが寂しい。そう思っても平太はそれらを言葉に出来なかった。声もなく、ただ涙を流すことしか出来ない。
「平太ね、隅っこで小ちゃくなってたんだよ」
食満から離れた喜三太がそう言いながら近くに生えていた木へと凭れかかる。近くに居過ぎたらダメなんだと幼いなりに察したのだろう。少し離れた場所から食満と平太を見ていた。
「もっとちゃんと探せばよかったなぁ。ごめんな平太。でも会いに来てくれて嬉しいよ」
食満は小さな平太の体をぎゅうと抱き締めてその背中を優しく撫でた。
「…食満先輩」
平太がようやく口にした言葉に食満は体を離して平太の顔を見つめる。
「これ」
平太はずっと握り締めていた右手を食満へと差し出した。何だろうかと食満が手を差し出すと食満の手の上に丸い物が転がる。
「…びいどろ?」
食満の言葉に平太は小さく頷いた。
「それ、平太の宝物!」
遠くから二人の様子を窺っていた喜三太がパタパタと駆け寄ってきて食満の手の平の上に転がるびいどろを見つめた。
「平太の宝物なのか?綺麗だなぁ」
食満は硝子で出来た小さな球体を指で摘まんで空へと掲げる。深い青が陽の光をキラキラと反射させた。
「海の青だな」
食満はびいどろを覗き込んでそう笑う。
海と同じ色だと思ったから平太にとってそのびいどろは宝物になった。同じびいどろを見て同じことを食満が思ってくれたことが平太はとても嬉しかった。
食満が平太の手へとそのびいどろを返そうとしたが、平太は小さく首を横に振って「食満先輩にあげます」と告げた。元々そのつもりでこれを持って来たのだ。
「俺に?」
食満のその言葉に平太はしっかりと頷く。
「でも、宝物なんだろう?」
その言葉に「宝物だから食満先輩にあげます」と平太は笑う。
「…そうか。ありがとうな。大事にする」
びいどろを嬉しそうに見つめ、大事に懐へとしまった食満はもう一度平太を抱き締めた。今度は平太もしっかりと食満へと抱きつく。そして少しだけ薬臭い食満の服へと顔を押し付けて、涙を零した。
「もう、君たち、出門表にサインしてくれなきゃ困ります!」
後ろから追いかけてきた小松田のその声に食満はそっと体を離した。そして立ち上がって小松田に「すみません、大目に見てやって下さい」と頭を下げる。そんな食満を平太は見上げる事しか出来ない。自分の所為で食満が頭を下げるのが平太はとても嫌だった。
「きっと先生方も心配してるだろうからほらもう学園に戻りな。俺ももう行かないと」
食満のその言葉に喜三太も平太も頷く。そして「じゃあな」と手を振った食満のその背中を見送った。
「…君たち、早く戻りましょう」
そんな事を言った事務員の小松田に喜三太が「もう会えなくなるんです。見送りくらいさせてくださいよー」と訴えると「それもそうですね」と小松田も一緒にその場に暫く留まってくれた。
一本道の向こう側へとどんどん遠ざかる食満の背中が見えなくなるまで平太と喜三太、そして小松田はその場に立ち尽くしていた。
*:*:*
卒業式が終わると短い春休みが与えられる。家が近場の生徒は皆自宅へと戻り、そして春休みが終わって学園に戻ると進級するのだ。
平太が学園に戻って来ると門の近くにある桜は既に大半の花びらを散らせて代わりに新芽を出していた。花よりも葉っぱの数が多くて新緑が目に眩しい。思わず入口のすぐ近くで足を止めて平太が目を擦っているとすぐ脇を食満が通ったような気がした。慌てて目を開けて辺りを見渡してもそこには誰もいない。けれど先ほど確かに食満の姿が見えたような気がした。
「食満、先輩?」
平太は荷物を抱え直し、食満の姿を探す様に学園内を歩き始める。この学園にもう食満がいないということを平太はまだ上手く飲み込めていないのだ。
平太はまだ人と別れた事がなかった。父母だけでなく祖父母もまだ健在で、離れて暮らしていても休みになれば会う事が出来る。だからもう会えないという事を上手く理解することが出来ない。食満が卒業するという時は悲しくて涙を零したけれど心のどこかで春休みが終われば会える様な気がしていたのだ。
「食満先輩?」
平太は小さなその手をぎゅうと握り締めながら荷物を抱えたまま学園を彷徨っていた。六年の長屋、食満が暮らしていた部屋の障子を開けるとそこに居たのは食満ではなく、そして同室の善法寺でもなく、少し前まで五年生だった人だった。
「…二年生?何か用?」
そう問われても平太は小さく首を横に振って、走って逃げだすだけでそんな平太をこの長屋の新しい持ち主である生徒は「変な奴」と視線を送るだけだった。
平太は学園内をかなり歩いたつもりだったが、一度も食満を見掛けなかった。それどころか、六年生を誰ひとりとして見つけられない。
「食満先輩」
いつもなら自分から探しに行かなくても食満が見つけ出してくれた。だから食満が普段どこに居るのか平太はよく知らない。
最後に辿りついたのは用具室だ。もう用具委員会が使っているこの部屋以外、食満が居そうな場所を平太は知らない。
障子越しに用具室で人影が動くのが見え、食満だと思った平太は「食満先輩!」と名前を呼びながら勢いよく襖を開けた。
ようやく見つけたと思ったけれど視界の先にあったのは食満ではなかった。そこにいたのは用具委員会の先輩であった富松作兵衛の姿だ。富松は平太の声に驚いた様に振り返り、そして平太の姿を確認するとほっとしたように笑った。
「平太か、びっくりしたじゃねーか」
富松はどうやら道具の確認をしていたようで見慣れた道具たちが箱から出されている。
「…それに食満先輩は卒業したからもういないんだぞ。俺の名前間違えたのか?」
富松は困った様に一度だけ笑い、「ちょっと長屋忘れ物取りに戻るけど平太まだここに居るか?」と平太に尋ねた。平太が頷くと「そうか」と軽く平太の頭を撫でて富松は用具室を出て行く。
富松が去ったのを確認して平太は用具室を静かに見渡した。いつも見慣れている用具室もひとりでいると広く感じる。そしてこの場所にひとりでいると先ほどの富松の声が甦った。
卒業した食満はもう学園には来ない。
委員会に顔を出してももう食満はいないし、あの部屋にもいない。
卒業するということが、会えなくなることだということ。会えないということは、こんなにも悲しいということを平太は初めて知った。人と別れる事が、置いて行かれる事がこんなに寂しいものだと初めて知ったのだ。
その場に立ちつくしている平太の頬を涙が伝う。鼻がつーんとして痛い。ぽろぽろと零れ落ちた涙がぽたぽたと床へと落ち、板の色を変えて行く。それを平太はぼんやりと見ていた。
すぐ戻って来ると言った富松は中々戻らず、平太の涙もいつしか止まった。心はまだ悲しいままだけれどいつまでも泣けるものでもない。涙はいつしか止まってしまうということも今回平太が学んだことのひとつでもあった。
廊下を走る音が聞こえ、そしてその足音が用具室の前で止まって襖が開かれる。
「平太、やっぱりここにいたんだね」
そう言ったのは平太と同じ組の伏木蔵だった。
「今から委員会決めるんだよ。早く来ないと勝手に決められちゃうよ」
平太の手を取り、伏木蔵は歩きだす。富松が戻って来ない理由も多分それなのだと分かったので平太は伏木蔵に手を引かれながら用具室を後にした。
長屋に荷物を置いて教室に向かうとろ組の生徒達が全員揃っている。
「平太来たから始めよう」
「じゃんけんに勝った人から選べるっていう去年と同じ決まりでいいよね…?」
そう言っては輪になった生徒達は皆片手を出して用意をしていた。そして「せーの、じゃんけんぽい」の掛け言葉が小さいながらも室内に響く。
「…あ、平太のひとり勝ちだ」
「いいなぁ…」
「平太、何にするの?」
こんな大勢の中ひとり勝ちした平太は自分の指を見つめながら「用具委員会」と小さく呟いた。
「…え?学級委員長とか火薬委員とかもまだあるよ?」
「そうだよ、用具委員会は大変だって平太が言ってたじゃないか」
皆が不思議そうに顔を見合わせる中、平太はもう一度「用具委員会がいいんだ」といつもより大きな声できっぱりと告げる。暗いとよく言われ、引っ込み思案の子が多いろ組の中でも平太は飛びぬけて自己主張が下手な部類だった。その平太がきっぱりと言うんだから周りは「…平太がいいなら、いいけど」「じゃあ平太は用具委員会で」と通してくれる。平太はそんな皆に「有難う」と告げると「僕ちょっと出て来る。あとで誰がどの委員会になったか教えてね」と伏木蔵に耳打ちをして教室を出て行った。
平太が向かったのは用具室だ。どうやら富松も戻って来たようで平太が用具室に入ると「あれ、平太、何か用あるのか?」と振り返っていた。
「僕も、用具委員会に決まったので挨拶に来ました」
平太の言葉に富松は驚いた様な顔をした。一年生の中でも平太は一番口数が少なく、他の二人が手が掛かる分大人しくて助かっていた。けれどその分富松は平太の事をおざなりにしてしまう事が多く、その事でよく食満に注意を受けていたのだ。だから食満がいなくなった用具委員に平太が望んで入って来るとは到底思えず、きっと他の委員会へと行ってしまうだろうと思っていた。
「富松先輩、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げた平太に富松は「あ、ああ、こちらこそよろしく」と慌てた様に告げる。そして「頼りにしてるよ」とその小さな背中を撫でた。富松のその言葉に平太は嬉しそうに笑みを浮かべ、「はい」としっかりした声で返事をした。
(2011/10/02)
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